冒頭、彼は貧しい農民の息子だったが、暖かい家庭に育ったことに感謝する、との話をします。彼の人生の将来図を描くに大いに影響を与えたのは、農民から工員に転じて人間の尊厳が軽んじられる経験をした父親の寂しい姿でした。彼がスピーチの際、必ずといってよいほど話す人間主義的経営哲学のエッセンスです。
9時過ぎに夕食がはじまるまで、広場や街角でワイングラスを手にして招待客たちは雑談をしていたのですが、突如、建物の2階のベランダから1人のイタリア人俳優が階下にいる人たちを前にダンテの『神曲』の一章を朗読しはじめました。クチネリは古代ギリシャやローマあるいはルネサンス期の哲学者などの言葉を盛んに引用し、古典に生きる糧があることを語る人です。ですから、『神曲』の朗読は意外ではありません。
ただ、中世からの街の雰囲気とのマッチングには息をのみます。そのとき、思ったことがあります。長期的な視点は、くり返し強調し意識しないと、すぐ日常生活にある短期的な視点に引っ張られてしまいます。古典の言葉が良いのは、長い時間を経て生き残った言葉であることもありますが、その長い時間そのものを強制的に想起させてくれる素材であるからです。
ブルネロ クチネリという企業は1978年の創業ですから、19世紀に創業されたフランスの同業者と比較すると新参者です。しかし、クチネリが古代の哲学者の言葉などを何度も口にしていると、ブルネロ クチネリという会社は2千年以上も続く価値の後継者であるようにみえてくるのです。
彼自身、「私は価値の門番である」という表現もするくらいですから、なにも聞き手の勘違いではありません。そうすると、1850年の創業と1978年の創業は、誤差程度の違いにしか見えません。
クチネリは休日、1人で自宅近くの森のなかに行き、そこで本を読んだりものを考えたりするそうです。そして、長い時間を刻んできた街のなかに佇むのを好みます。さらに、それらと並行して彼が好むのは、ソロメオであれ、日本の仙台であれ、若い人たちと雑談する時間です。そういうリアルな場面にぼくは遭遇し、若い人たちが目を輝かせてクチネリに質問をし、彼の鼓舞する言葉に彼らの表情が明るくなるのを何度も見てきました。
何十世紀も続く言葉と次の社会を担う人たちが見事に繋がるわけです。古典の言葉は決して懐古趣味によるのではありません。長期的な視点を持ち続けられることが、人生を過ごすにあたり心の大きなよりどころになることを教えているのでしょう。そして、長期的な視点は普遍性を持ち得るために、「外に開かれやすい」のです。
一回、外に開くのではなく、長い間、外に開き続けるための工夫と習慣が要されることが、これらの2つのエピソードから分かると思います。