山田さんの場合と同様、旧型ラグジュアリーの行き詰まりには、『新・ラグジュアリー 文化を生み出す経済 10の講義』のなかで指摘した内容を再掲する必要を感じました。ただ、要点を2つに絞りましょう。ラグジュアリーの意味が変化する状況についての認識、海外の人から見た日本文化とビジネスの可能性についてです。
世界には思ったよりも時差がある
まず、ラグジュアリーの意味が変わりつつある背景として、情報の透明化を求める若い世代が消費者としての台頭、企業の社会的責任への期待、ヨーロッパの地位の変化と旧植民地への贖罪、これらの3つを挙げました。ただ、本を刊行して1年以上を経て追加で注釈したい点もあります。言うまでもなく、ぼくの経験はヨーロッパに軸をおいているので、「ヨーロッパの今」を色濃く反映しているものです。本を書いた時、情報透明化や社会的責任への期待は、先進国と新興国で差がなくなりつつあるグローバル化を踏まえていました。たとえ、グローバル化が大きく鈍化していても、ラグジュアリー領域に関心をいだく人たちの間では共通化が強まる、と。ただ、そこに時差をもっと見込んでおくべきでした。
確かに、ラグジュアリースタートアップそのものはグローバルな現象です。しかし、先進国ではそのコンセプトが新ラグジュアリー寄りにウエイトがおかれる一方、新興国の人の間で旧型ラグジュアリーへの希求はより強く残るという予感があります。
ミラノの大学院でラグジュアリーについて新興国も含む各国の学生たちと議論した時、その思いはさらに増しました。言葉の上では新型に理解があるようでいて、実際の事例をあげて選択するものは旧型なのです。
しかも、昨年春からの地政学的問題の深刻化はヨーロッパの人々を「文化的にも覚醒」させました。それ以前からあった動きですが、ヨーロッパ各国の美術館が他国から収奪した美術品を元の国への返却を急いでいるのは、過去の行為の清算とともに民主主義国家として揚げ足をとられないためでしょう。これらの潮流をみていると、どの地域のどのような人にラグジュアリーの新型と旧型のそれぞれが支持されるかを再度よくみる必要を感じます。
2020年11月、戦略コンサルティング企業・ベイン&カンパニーのミラノオフィスは、「今後、ラグジュアリーは『高級品業界』という括りではなくなり、『文化と創造性に秀でた商品が入り乱れる市場』になると予測される」と報告しました。この流れは、世界各国に共通すると見積もっていましたが、そのなかでもヨーロッパが一歩も二歩も前に進む可能性が強まってきたのです。
激動の政治・社会状況のなかで、民主的な価値への強い問いかけが生れており、そのなかで民主的価値への支持が間接的に新型ラグジュアリーの支持を強くするように作用しているようにみえます。逆に西洋的価値観とは距離をおく権威主義的国の一部の人たちこそが、ヨーロッパの旧型ラグジュアリーに固執する、というやや奇妙な動きです。