そうすると、2003年に公開されたソフィア・コッポラの映画『ロスト・イン・トランスレーション』現象がますます際立ってきます。この映画は中年のアメリカ人俳優と若いアメリカ人写真家の妻が別々に東京にやってきて、コミュニケーションの成立が難しい異文化空間のなかで同国人の二人がしだいに心を通わせていくストーリーです。
厳しい見方をとれば、「(外国)人の尊厳を顧みないのが日本社会である」ことが強調された作品です。「日本の文化とはこれであるべき」「(日本語表記だけであっても)名刺は渡すのが礼儀」といった日本流儀を想起させるシーンが続きます。コミュニケーションのためではなく、「我が文化から外れない」方針のもとに全ての行為がなされるから、「翻訳不能」の世界であると外国人は見るのです。
したがって、公開から20年を経た今でも欧州から日本に向かう機内で「あなたの目的地で一番よく見られる映画」と表示され、日本に行く欧州人から「あの映画で描かれている日本社会を基準としてみて良いのか」とぼくは頻繁に聞かれ、自らの日本滞在経験は、あの映画と比較して「マシか、どうか」が指標になっているわけです。
日本の神秘とビジネスは別の話
車内掃除を終えた新幹線に一斉に頭を下げる風景は、外国人の間でインスタ映えします。動画でもウケますが、奇異であるから撮影するのであって、ある程度以上のレベルの人であれば、あそこに日本文化の神髄があると思いません。要は、日本の「翻訳不能」な景色の一つであり、それが豊富な謎の国だから日本に旅してみたい人が大勢いるのでしょう。これは皮肉ではないです。率直に、その旅先での経験を魅力に思うのです。しかしながら、神話度が高いからといって、この国の人たちとビジネスを積極的にやろうと思うかといえば別です。無駄と思われるサービスに時間とエネルギーを費やすのは生産性の低さの裏返しでもあります。そのサービスを提供する日本の人たちのライフスタイルを羨ましいと思えない。さらに言えば、工芸品をつくる職人の技術力の高さや製品スペックには感心しますが、その職人の生活に魅力があるように見えないのです。「翻訳不能」な動機で仕事をしていると思われるのです。
やや長い解説になりましたが、こうした視線を受けながら日本の産地の製品が海外の人から判断されます。謎だから高価格も受け入れるのか、謎だから高価格はリスクとして避けるのか。個人の買い物であれば、謎は謎としてそのまま楽しめます。しかし、法人のビジネスであれば謎は通用せず、説明責任が要求されます。