父のお年玉の渡し方はすごく凝っていた。高校生のときに分厚い封筒を渡されて、「え、こんなにもらえるの!?」と驚いて開けたら、百円紙幣100枚だったことがある。父は1974年に百円紙幣が廃止される前に100万円ほどを百円紙幣に換えたのだ。1センチくらいの厚みがあって、すごく印象に残った。
大学生になったときは「お前に久しぶりに小遣いをやろうかな」といって、1枚のコインをくれた。なんだ100円か、と思ったら、10万円金貨だった。ただお金を渡すのではなく、相手が驚いたり喜びが倍増したりするような方法やテクニックを父はいつも試みていたように思う。
これは僕の話だが、「後悔のお年玉」というのがある。20年くらい前、サンフランシスコのザ・リッツ・カールトンに泊まったとき、元旦だったので仲良くなったポーターにお年玉をあげようと思って100ドル札を渡した。でも、当然だけど一流のポーターは渡されたチップをわざわざ見ない。彼も「サンキュー」と笑顔でポケットにしまってしまった。
あとで100ドル札と気づいて、さぞかしビックリしたんじゃないかと思うが、もはや誰からもらったものかわからなかっただろう。あのとき、ポチ袋に入れるとか、父のように渡し方を工夫したらよかったのに、と本当に悔やんだ。
それがきっかけというわけでもないのだが、僕はいまポチ袋を持ち歩くようにしている。旅館で仲居さんに心付けを渡すときや、ちょっとしたお祝い事で小額の祝儀を渡すときなど、とても重宝する。
せっかくならとポチ袋自体も京都の紙屋さんで購入している。先日も根津で、いい感じの紙屋さんを発見し、たくさん買いこんでしまった。それぞれのポチ袋を今後どんなタイミングで誰宛に使うのか、それも楽しみのひとつだ。