放送作家・脚本家の小山薫堂が「有意義なお金の使い方」を妄想する連載第6回。
明治神宮外苑にある絵画館を訪れて思いついたひとつのアイデアは、
数百年の時を経て、日本を物語る新しいメディアになる!?
東京で毎秋開催されるクリエイティブの祭典「東京デザインウィーク」は、2015年にめでたく30周年を迎えた。これはデザイン、アート、ミュージック、ファッションという4つのジャンルにおいて、国内外のさまざまな企業やブランド、学校、デザイナー、アーティストが展示やイベントを行うというもので、僕は建築家の隈研吾さんや、アートディレクターの佐藤可士和さん、脳科学者の茂木健一郎さんなどと一緒に理事を務めている。
僕はこの祭典の理事を務めることで、デザインの役割について深く考察するようになった。思うにデザインとは、人々の共感を得るため、人々の心を束ねるための“リボン”のような存在なのではないだろうか。
視覚的、プロダクト的、生活に役に立つかどうかももちろんデザインの大事な範疇だが、それ以上に、よきアイデアが生まれたとき、そこに集まった人々をゆるやかに束ね、気持ちを離れないようにしておく機能がデザインにはある気がしてならない。
さてここからが本題。東京デザインウィークは05年から明治神宮外苑絵画館前に中央会場を設けている。会期中、ここで地方創生事業の振興のプランづくりと国内外に向けた発信を目的とするプロジェクトのキックオフとして「地方創生シティ会議」が行われた。
僕はそのとき初めて絵画館を訪れたのだが、皆さん、絵画館とはいったい何であるかご存じですか?僕はまったく知らなかった。なんとなく絵画が展示されている美術館の一種くらいに考えていた。
絵画館は正式名称を「聖徳記念絵画館」といい、大正15(1926)年、明治天皇の生涯の業績を後世に伝えるために建てられたという。壁にはご生誕から崩御までの重要な出来事—大政奉還、江戸開城談判、岩倉大使欧米派遣、憲法発布式、日露役日本海海戦など日本の近代への第一歩—が、一流画家80人の手により80枚の絵画として描かれ、年代順に並べられている。しかもそれらは地方自治体や資産家などから“奉納”され、国の予算は一銭も使われていない(どの絵が誰の寄付によるものか、絵の横にタイトルとともに記載されている)。つまり、絵画館とは建物そのものがひとつのメディアなのだ。
200年後の人も感動させるもの
そこで閃いた。新しい絵画館をつくったらどうだろうか。
問題は誰がつくるかだが、三木谷浩史代表理事、藤田晋理事、熊谷正寿理事などが参画している新経済連盟(新経連)はいかがだろうか。先日、新経連の集会に呼ばれて、秋元康さんとトークイベントをしたのだけれど、会場は「これからの日本をつくっていくんだ!」という気概のある若手オーナー社長の熱気であふれていた。彼らが資金を出し合って、新絵画館、つまり新しいメディアを築くのだ。
題材は「いま」で、理想は月に1枚制作。その月に日本で起きた事件、あるいは将来振り返ったときに大事なニュースやエポックメイキングな時事を描いていく。1年に12作品だから、10年で120枚、100年で1,200枚所蔵と、どんどん増え続ける。ガウディによるサグラダ・ファミリアのように、終わりのない絵画館である。
今月の題材を何にするか、誰に描かせるか、費用を誰が持つかは、新経連の毎月の会合の議題にあげる。重要なのは今月の題材をワイドショーやニュースとは違う視点・観点で選ぶことで、それによって彼らの時間に対する想いや日常の構えが少しずつ変化したらおもしろいなと思う。
かくいう僕も最近、長期的な価値について強く意識するようになった。そのきっかけのひとつが、室瀬和美さんという人間国宝の漆芸家と出会ったことだ。
先日、室瀬さんの仕事の様子をBS朝日「アーツ&クラフツ商會」で撮影させてもらった。これは伝統工芸を取り上げ、その歴史と技を紹介し、最後にプロダクツに落とすという3段階の番組で、そのなかに「スタッフが挑戦」というコーナーがある。室瀬さんの回では僕がそのスタッフとして漆芸を教わった。
まず◯と△と□を漆で描いて、その中に蒔絵を描く。思いのほか綺麗にできて、室瀬さんにも「すごいですね、初めてでこのレベルは」なんて持ち上げられたものだから、「俺って天才かも」(笑)などと内心思っていたのだが……。あとで室瀬さんの仕事を間近で見たら、当然ながら足下にも及ばないというか、あの程度で浮かれた自分が恥ずかしいというか、とにかく本当に素晴らしい技なのだった。
しかし、素晴らしいのはそれだけではない。たとえば漆椀の工程でいうと、木地固めから錆固めという下地づくりだけでも3カ月かかる。
その後、下塗り、中塗り、上塗り、磨きなどを経て、ようやく絵付けや螺鈿(らでん)などの作業をするわけで、相当な手間がかかる。
僕は室瀬さんの「これを見て200年後の人も感動するということを考えると、手を抜けない」という言葉にしびれた。一般的に人は「いま」のことしか考えない。完成したときにウケるかなとか、時流に間に合うかなとか。室瀬さんはそんなことは露ほども考えず、200年後の人の目を意識しながら仕事をされている。感動したし、同時に嫉妬のようなものさえ覚えた。
「遠慮近憂」という言葉を教わって
もうひとつ、これも貴重な教えをいただいた話を書きたい。先日、小笠原流礼法の宗家である小笠原敬承斎(けいしょうさい)さんを招いて、湯道(15年11月号参照)の作法について話し合った。「湯道はいかに他人を慮(おもんぱか)るかが軸になるんです」と僕がいうと、小笠原さんは「作法というのは、それがすべてです」といい、「遠慮なければ近憂あり」という諺について説明してくれた。
まず「遠慮」という言葉を私たちは少々誤解していると思うのだが、遠慮は消極的に行動することではなく、遠い将来まで見通した深い考えのことだ。だから先の諺の意味は、「遠くの未来まで慮らなかったら近くの未来に心配事が起きる」となる。深淵な時間が「遠慮」という言葉には含まれているのだ。
そこで僕は「遠慮せずして遠慮しろ」という社内標語を考えた(笑)。消極的にならず、しかし遠くの未来まで慮ることを、いまスタッフをけしかけている。
新絵画館も題材こそ「いま」だが、「いま」の積み重ねは過去になる。そして長い過去が数百年後の人々にある種の教えや感動を与えるといいなと願う。