「自立」とはどういうものか
──おふたりが社会に出た1980年代前半は、男女雇用機会均等法がまだ施行されていませんでした。その時代に大学院に進学し、建築家を志した経緯は何だったのでしょう。
妹島:当時は女性を正社員として採用する大手建設会社がほぼなかったと記憶しています。採用しても準社員のような位置付けでした。先に就職したとっても優秀な同級生の人たちが実はそうだった、と後から知ったときは驚きました。
私も4年生のとき迷いながらも大手を一社だけ受けようとして、会社の方にお話を伺いに行ったのですが「うちに来るかどうかすぐ決めて」と早急に迫られました。慌ててその会社に勤めていた大学の先輩に電話したら「やめなさい」とはっきり言われた。それで決心がつき、院進。学費のために伊東豊雄さんの設計事務所でアルバイトを始め、最終的に伊東さんに雇っていただき、その後に独立という流れです。
篠原:私の場合は、就活を始める前から自分が不利な状況にある自覚がありました。田舎の農家出身で業界にコネクションもないし、大学1年生のときに父親が亡くなっていましたから。当時の就活で、父親がいない単身女性は明らかに不利でした。外的要因で同級生たちと勝負にならないと考えたときに、自分の力で進む道を選ぼうと考えての院進でした。
母も「駄目だったら帰ってきて農家をすればいいじゃない」という感じでしたし、在学中に公子先生から「設計者になりなさい」と聞かされてきたことも影響したと思います。社会全体が経済成長の真っただなかだったことも大きいですよね。
妹島:先生方も時代も、保護者の意識も今よりおおらかでしたね。「やりたいことをやりなさい」という空気がありました。そして私たちもそれをそのまま真に受けてしまう伸びやかさが、女子大で培われていったのかなと思いますね。
稼ぐこと、養うことに対する男性のプレッシャーは、今よりも非常に強かった時代でもあったと思います。当時、私の母が「男の方のご両親は大変だー」と言ったのが印象に残っています。
篠原:80年代はまだそういう時代でしたね。私たち女性は「自分で食っていける自立を目指さねば」という思いはありましたけど、自分以外の誰かを養わねばという圧力はありませんでした。でも、公子先生は教員生活の終盤には、「自分ひとりで生きるだけでは、女の自立とは言わない。親、子ども、上下の世代をそれぞれ背負って初めて『自立』だからね」とお話しされていたんですよ。女性が自立するとは一体どういうことか、最後まで考え、伝えようとしてくださっていた方でした。
