僕自身は、京都という街はよそ者が住めない場所だという印象を持っていたのですが、京都の方とお話をするなかでそのおもしろさを知り、まずは住んでみようと。
移住後、祇園祭を初めて体験し、そこで「屏風祭」を見たんです。新町通や室町通の古い町家がこの時期だけ格子戸を解放して、代々伝わる屏風や着物、焼き物などのお宝を室内に飾り、通りから覗き見る形で鑑賞できるようにするというものです。
なるほど、古美術をこういう場所でこうやって見ると、こんなに幻想的に見えるんだ。この街ではこういうことができるんだ、と。それがKYOTOGRAPHIEの構想につながりました。
ご存知の通り、京都という街で何かを興すのは、容易いことではありません。立ち上げた頃は場所を使わせていただくこと自体が本当に大変でした。ですが、一度、信頼関係が結べると、むしろ手厚く協力してくださいます。
また、京都にはさまざまな年代の建築が共存している。日本の伝統的な建造物や洋館もあれば、最新の現代建築もあります。伝統工芸の技術も、企業の最先端テクノロジーもある。見る目は厳しいですが、その分、いいものに対する理解があります。
京都という街が多面的であるからこそ、僕たちは写真のみならず、日本の美意識や精神性、歴史に培われた文化、あるいは最先端を同時に発信できる。上海や香港などといった都市からも「うちの街でできないか」と誘致の話をいただくのですが、いまは京都以外ではイメージができません。
「写真家と照明家」のやり方で
深井:通常、アートフェスティバルという形で何かを企画しようとすると、どうしても盛り上げることを目的とし、集客や効率面を意識する傾向にあると思います。それに対し、お二人は震災を契機とした、社会課題への応答や明確なビジョンが先行している。他の興行的なアートイベントとは成り立ちが違います。また、会場構成にも個性がある。写真祭は、写真自体が平面的でどちらかというと画一的なメディアなので、ともすると単調になってしまいがちですが、それぞれの会場の個性を大胆に活かしてリズムがあり、空間構成がとてもよく考えられていると感じました。
一つひとつ、すべての展示でアーティストに伴走しながら一緒に作り上げる姿勢も、お二人がアーティストであるからこそ。KYOTOGRAPHIEの個性を語る時には、お二人が表現者であるということを抜きには語れないのではないでしょうか。