ベイン&カンパニーの市場データは企業名が鍵になっている可能性が高いため、商品カテゴリーが指標になっていないのではないかと想像します。そうすると、これは別の観点から考えた方が良さそうです。もしかしたら、これが新ラグジュアリー論で考えるべきテーマなのかもしれません。
そこでファエンツァの展示スタンドでの数々の会話を思い出します。クラフトの言葉、ファインアートの言葉。人によって強みが異なりますが、これら交差するポイントで話していた人が一定数いました。どのアングルから作品をみるのが良いのかを考えながら話しているのですね。
ファインアートもクラフトも一緒になった場でこそ頻発するもので、アートギャラリー、美術館、家具のショールームなど場の目的がはっきりしているところでは起きにくい現象でしょう。いずれにせよ、スタンドを訪れた人たちの話しぶりからは、どちらかのカテゴリーに押し込めて安心しようとの印象も受けません。考えること自体を楽しんでいる風もあるのが面白いところです。
「どういうわけか」と言わせる存在感
また、それらの人たちは「日本のものなら」「京都のものなら」という先入観に思ったほどにとらわれていないのにも気がつきました。クラフトは伝統文化と深い関係をもつことが多いにも関わらず、「それなら、こうあるべきだろう」との思い込みが少ない。しかし、同時に「やはり、日本の陶芸品はどこか一味違うね」とも評価する。日本独自のモチーフや技法が使われていなくても、です。
20世紀のはじめ、英国人の画家・陶芸家であるバーナード・リーチは、柳宗悦などに日本の工芸の質の高さを説きました。その後に日常の用を足す道具に美を見いだす「民藝」の概念が生まれます。それから1世紀以上を経て今なお、ヨーロッパのセラミックの専門家の間で「日本の陶芸品のレベルは高い」と言われているのです。何の要素が、という分析を超えて、どの観点から考えても「どういうわけか」日本の陶芸品は良いと思うようです。
実は、この「どういうわけか」に、科学や技術を踏まえたうえでのノウハウ以上のものが隠されているように思えます。誰もはっきりと言葉では説明できない。しかし、1世紀以上もの間、日本の陶芸品は良いと欧州では思われ続けている。伝統文化が明確に紐づけられていなくても、もっと大きなものに包まれているような感じがします。そして、この大きなものはファインアートとクラフトの境なども超えているのです。
「どういうわけか」と言わせてしまう、思わせてしまう。ここに日本の陶芸品が存在感を示している鍵があるとしたら、これからどう発展的に考えていけば良いのかと思案しています。少なくても国際的なラグジュアリー分野で存在感をもっと示せる潜在力があるわけですから、前進しない手はないでしょう。
先日、静岡大学で経営学を教えている本條晴一郎さんが、「(分析的な思考をする)エンジニアリングはラグジュアリーにならないが、クラフトはラグジュアリーになる要素」というコメントをくれました。
このあたりの話は中野さんとも散々してきましたが、殊、アートやクラフトというエンジニアリングが絡まないところでの議論となると、それでは何をどう構築的に考えればいいでしょうか。とてもぼんやりとしている話で恐縮ですが、このテーマで思いつくエピソードなどありますか?