ラグジュアリーの価値と、「これは美しい」と言える自由

「ステラマッカートニー」は設立当初から代替レザーを使用している(Getty Images)


その第二の都市・カウナスにある工科大学のデザインセンター長、ルータ・ヴァリュサイトは、政府の委員会でデザイン政策に関与しています。国民の1人1人が自ら感じ考えていく習慣が定着するよう方向付けないと、新しい社会構想が生まれにくい。そのためにはデザイン教育が有効だと彼女は考えているからです。

旧ソ連時代、社会にあるものは審美性を判断する委員会がすべてを決めていました。書籍におけるフォント、日常雑貨、街並みに至るまで、委員会にすべて「お任せ」(あるいは「お仕着せ」)だったわけです。それが社会主義の計画経済の基本です。


独立宣言後のリトアニアの様子(Steven Siewert/Fairfax Media via Getty Images)

そうした委員会によって定められた美的基準は、ものすごくイケているのでもなければ、ものすごく野暮であるわけでもありません。だからと言って、国民が「これは美しくない」と公言すれば政府批判と受け取られるため、人々は美醜そのものの判断をしなくなります。そしてその判断停止は、自らものを考える習慣の放棄に繋がりました。ベルガンティの言葉に沿えば、「生きる意味を考えなくなる」ということです。

鉄のカーテンがおりていた当時、東欧も時代の先端にあるとアピールするため西欧に視察団を送り、西側のトレンディなデザインを真似た製品もつくりました。数年前、リトアニアの首都ヴィルニュスでアート史の専門家と話したとき、そうした製品が映った写真の数々を見せられ、旧ソ連下は決してデザイン暗黒の時代ではなかったと説明を受けました。「かなり良いものもある」とも思いました。しかし、前述のルータに「プロパガンダはデザインとは言わない」と指摘されました。そこで、ぼくはハッとしたのですね。

民主化と美的基準


半世紀以上も続いた社会主義体制のなかで喪失された自ら考える習慣、この復活にルータは思いのほか手こずっているのです。独立国家になっておよそ30年を経ても、です。

そこで彼女は、デザインの存在を感じる空間をつくり、そこにデザインの書籍や試作品なども置き、定期的にデザイナーの話を聞く定例会を試みてきました。その結果、参加者たちが自分の考えに確信をもてるようになってきたのです。ここから、「これは美しい」「あれは美しくない」と判断する習慣がもてるようになるのは、自ら見いだす意味を明確に意識できるようになることだと言えます。

国民の誰もが自由に審美の判断をし、誰もが自分なりの意味を見いだし、それを公言できる。これが民主化された社会の条件であろうと思います。この条件をクリアしていない場合、かつてのリトアニアの委員会の定めたような美的基準のレベルが格段にあがろうと、議論してもそれこそあまり意味のないことです。

それは言ってみれば美の大衆化であり、実質的には個人の自由な判断をもつ美の民主化とは距離があることになります。大衆化は上下の構造のあるなかで上のものが下におりて普及することで、その先に新しい価値創造の契機はありません。一方、民主化は上下とは関係なく領域が水平に常に広がるイメージです。新しい価値を生む土壌が内蔵されています。

新しいラグジュアリーは意味の領域に関わるので、より民主的であることが条件になるでしょう。上からおりてきたものを有難く受け取るのではなく、1人1人が考え、つくり、選べるラグジュアリーです。権威主義的体制における新ラグジュアリーとは、反体制的表現とされ弾圧の対象になるかもしれません。

もちろん、自由が良いか、自由の制限は構わないか、これは個人の好みです。ぼくは前者を好みます。イタリアに住んでいる理由、そのものです(笑)。

【連載】ポストラグジュアリー -360度の風景-

文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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