また、資源としては有限な天然ダイヤモンドに代わるものとして、その組成をなぞる合成ダイヤの創造が進み、市場に出回っています。一見、無駄なラグジュアリーを創るために生まれた新しい技術の数々は、他の領域でも応用され、私たちの日常生活にも影響を及ぼしていくことになると思われます。
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さて、合成ダイヤが天然ダイヤに比べてはるかに安価に出回っていることも象徴的ですが、テクノロジーが加速度的に進展していくと、さまざまなものが安価に豊富に出回るようになっていきます。「欠乏」がなくなっていくわけですね。
ラグジュアリー・コミュニズムとは?
「欠乏」のないその先の世界を、万人がラグジュアリーを享受できる世界として構想したイギリスの若手ジャーナリストに、アーロン・バスターニがいます。オンラインニュースメディアのNovara Mediaの共同創設者にして編集主任です。
左派知識人や政治家へのインタビューなども配信しているのですが、その彼の初の著書のタイトルは、なんと「ラグジュアリー・コミュニズム」。行き詰って弊害をもたらすばかりの現行の資本主義を改革し、幸福な未来を切り開く政治として、万人がラグジュアリーを享受できるコミュニズムを彼は提唱するのです。ポスト資本主義は、ラグジュアリー・コミュニズムであると。
彼の構想するコミュニズムは、欠乏だらけだった1917年のロシアがとらざるをえなかった共産主義の道とは全く異なるものです。情報もエネルギーも物資も潤沢にあふれ、無料に近くなっていく21世紀の極限の供給社会において、誰もがブルシット・ジョブから解放され、ラグジュアリーが隅々までいきわたる、万人が自由と贅沢にあふれた人生を謳歌できるような政治システムを構想します。
たしかにツッコミどころの多い過激な理論ではあるのですが、一理あると思わざるを得ないところがあるのも確かです。
これまでの連載のなかで、新しいラグジュアリーにおいては、従来のような富の格差、文化格差がなくなる世界における包摂性が大切になるということを書いてきました。階級なき世界における包摂性のあるラグジュアリー。それって、ラグジュアリー・コミュニズムと通じるところがあるのではないか? という疑問が頭をかけめぐっています。
歴史上、ラグジュアリーは資本主義を回す駆動力にもなってきました。しかし、ポスト資本主義が地球レベルで模索されている今、ラグジュアリーもあり方を変えるべき時に来ています。
それがフィットするポスト資本主義の世界はコミュニズムでいいのだろうか? ラグジュアリーとコミュニズムは果たして両立するものなのか?
さらに考えてみると、「安価でいいものが豊富にあふれ、さらにそれらが安くなっていく日本」はすでにそこに近づきつつあるのではないでしょうか。現に今の日本には、安価でいいものがあふれる現状に満足し、「それ以上何を求めるのだ?」という空気も漂います。安西さんはどのようにお考えになるでしょうか?