「愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの『対象』にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである」
これは社会哲学者のエーリッヒ・フロムが『愛するということ』(1956年)で述べた一節です。彼は、愛とは単なる感情ではなく、世界に対する「態度」であり、関係性の「方向性」だと説きます。今回は、この「方向性」の感覚を具体的に掴んだような体験を話題にしようと思います。

2024年11月、精油療法士・加藤広美さんが主催するTHENNのワークショップ「ダイアローグ」に参加しました。このワークショップは彼女の友人が主催する展示に合わせて企画され、空間・場所・展示品のマテリアルなどから着想を得て調合された2種類の香油を介して、参加者同士が即興で対話を行うというものでした。
その日は私を含め5人が参加。加藤さんと面識のある人が数名いたものの、参加者同士はほぼ全員が初顔合わせ。かつて町工場だったという広い空間の片隅に置かれた小さな木製の丸テーブルを囲み、カルダモンの香りがする白湯をいただきながら、まずお互いに軽く自己紹介を交わしました。
それぞれの表情がほぐれてきた頃に、加藤さんが調合した香油を私たちの手首に数滴たらしました。まずは各自で香りを嗅ぎ、その印象を共有。そこから、お互いの手首の香りを嗅ぎ合うという親密で少し緊張感のあるワークへと移ります。

驚いたのは、同じ香油でありながら、人によって香りの印象が大きく異なったこと。ある人の手首からは甘さが際立ち、また別の人からは柑橘の爽やかさが強く感じられる。それはどれも私の手首から感じ取れる香りとは全く違う印象でした。
さらに面白いのは、それぞれの香りに対する解釈も多様なこと。「甘い」のような共通認識はあっても、それをどう思うか、どんなことが想起されるかなどは人によって少しずつ違いました。
加藤さんは、香りの変化は体温、肌の水分量、食生活などに左右されると説明します。一方で、解釈に関しては、個々の経験や心理状態によっても変わるとのこと。これは私の中の大きな何かが崩れた瞬間でした。
私は、これまで香りを選ぶ時には、ファッションのようにアイデンティティの主張や「他者にどう思われたいか」を基準にしてきました。ひとつの香りから得られる感覚やイメージは、ある程度の合意が可能だと思っていたのです。
しかし人によって香りの変化も、その解釈も異なるのだとすると、自分がまとう香りを自分が嗅いだように他人が受け取ることはあり得ない。つまり、自分と他者の世界の見方が完全に一致することはあり得ないと確信し、世界の捉え方がふっと軽くなった気がしました。