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2025.03.03 17:15

人形町今半のブランドの価値の再発見 「おもてなし」とフェアな経営とは

1895年、東京・本所に牛鍋屋として創業した「今半」。その日本橋支店が1956年に独立した「人形町今半」は、黒毛和牛のすき焼きや鉄板焼きなどの飲食店等6ブランド、弁当、惣菜、ケータリングなど幅広く手がけ全国に43店舗を展開し、日本の牛肉文化を牽引している。

現社長・髙岡哲郎氏は、留学やホテル事業の経験を経て、レストランではパート社員に叱られながらも成長しつづけ、父、兄から老舗の経営を引き継ぎ、2023年には社長へと就任した。髙岡氏に、これまでの歩みとともに、「顧客価値」というおもてなしの指標、そして従業員と一体になって経営する企業のあり方について聞いた。

事業承継総合メディア「賢者の選択 サクセッション」から紹介しよう。(転載元の記事はこちら


兄は「後継ぎ」、お前は「自由」にちょっとさみしさも

──老舗企業に生まれ、小さい頃から「将来は家業を継ぐ」という考えはあったのでしょうか?

3つ上の兄(現会長・髙岡慎一郎氏)がおり、当然長男の兄が継ぐものと思っていました。父もそのつもりで、家族で墓参りに行くとご先祖様のお墓に「若旦那の慎一郎を連れてまいりました」と挨拶するほどでした。だから、兄自身も後継ぎの意識はありましたが、だいぶ抵抗があったようです。

一方、私は「何でも自由にやって可能性を広げなさい」と言われて育ちました。兄と違って外で好きなことができるという嬉しさの一方で、逆に「私は人形町今半にいてはいけないんだ」という、ちょっと寂しい思いもありました。人形町今半という会社が大好きでしたから。

──ほかに将来の夢や就きたい職業はありましたか?

他人が困っているのを放っておけないタイプだったので、困っている人を助けられる職業に就きたいと思っていました。たとえば医師、教師、福祉士などを考えていました。

「とりあえず」で入社した大好きな家業

──学生時代と就職活動はどのような感じでしたか?

学生時代は、演劇に乗りめり込み、そこから福祉活動へ、ボランティアばかりしていました。就職活動は、会員制リゾートがおもしろそうだなと思い会社説明会に行きましたが、あまり心がときめかず迷っていたところに「うちに来てもいい」と父から言われ、喜んで入社したのです。

私は人形町今半が大好きでした。「一番好きな会社にまず入って、やりたいことが見つかってから外に出ればいいか」という程度の気持ちでしたね。当社でいろいろと仕事を覚えて、料理を極めるのもいいかなとも思っていました。

──そのとき、お兄様はもう今半にいらっしゃったのですか?

いえ、兄は社会人になったとき、「少しでも外の世界を知りたい」とコンピューター関連の企業に就職したんです。そこで27歳まで勤めた後、当社に入社しますが、私の入社時は、まだ外で働いていました。私の方が先に入社し、兄が来やすい良い雰囲気にできたらいいかな、と考えていました。

旅館の売却に成功、ご褒美にアメリカ留学

──入社後、調理部門をはじめさまざまな部署を経験されたそうですね。

料理の道に進もうと思っていましたが、酷い食材アレルギーが発症し断念しました。しかし元気を買われて販売部門に移動し、販売が面白くなってきました。

時はバブルの頃です。当時、会社は日光で旅館に投資していました。でも、全く収益が上がらず、誰か元気な人を……と指名が来て、私が出向することになりました。

「本社の2代目」ということで、いつの間にか専務取締役総支配人という肩書きになってしまいました。資金繰り、集客、財務など現状を理解するようになると、もうこのままの下請け旅館では立ち行かないというのが分かってきました。

それまで修学旅行向けの宿だったのを、高級路線の個人向け観光旅館にしようと計画を立てたものの、赤字だらけの旅館に資金提供する金融機関が無い。秘密裏に売却先を探すことにしました。

──バブルの時代なので、買い手はすぐついたのでは?

有名なホテルオーナーさん達が目の色を変えて商談に臨まれ、旅館の上に視察のヘリコプターが飛ぶほどでした。一番値を上げてくれる人は誰か、スタッフを大事にしてくれるのは誰か模索していた中、隣地の地域一番店の旅館オーナーに打診しました。するとこちらの意を汲んでくださり有難い条件で話がまとまりました。

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