「当時のパソコンはすごく熱を持つんです。だから夏は暑いけど、冬は暖かい。だから、冬はその近くで、床に段ボールを敷いて寝て、起きて仕事をしていました。オフィス最寄りのコンビニにある食べ物は、全メニュー食べてしまったぐらいで。今でもそのコンビニチェーンに行くと、すごく嫌な気持ちになります(笑)。当時、毎日社員の人たちにすごく怒られてましたから」
プロジェクトに意味を見出せない者、ハードワークについていけない者から脱落していく中、孫と中村は働き続けていた。
「泰蔵さんも、私も身体も心も丈夫で、あまり壊れない。人がいなくなっていくなか、『なんだか僕たち、ずっとここの場所にいるね』みたいな(笑)。後で、本を読んで『デスマーチ・プロジェクト』っていう言葉を知って。『できなかった人の仕事は、できる人に割り当てて、プロジェクトのニーズを満たし、期限ギリギリになんとか間に合わせる』と書いてあり、自分たちがやってたのは、まさにこれだって!」
デスマーチ・プロジェクトになるのには、理由があった。インターネット産業の黎明期、システム開発の需要は急増するため、仕事は受注できるが、一方で、まだ誰もそのシステムを作っていくプロジェクトマネジメントのやり方がわからなかったのだ。学生の中村が、そんな開発現場での仕事を続けたのはなぜか。
「インターネットは、当時は大人の知らない、自分たちしか知らないことだったんですよ。『こんなふうに動くやつって、どうやって作る』と聞かれて『こうすれば、できますよ』と。ちょっとした興奮でしたね。自分たちが作ったものが、大人から見られるようになるって、結構面白かったんです」
気づけば、大学4年間のうち、2年弱の時間をヤフー立ち上げに費やしていた。卒業後、三菱商事へ入社するが、そこにも何の戦略もなかったという。
「大学に行かないで、ヤフーで毎日働いていて。なんだか疲れてきたので、就職先を探しはじめたのですが、すでに就職活動の時期を逃していて。金融と商社しか残ってなかった。拾ってくれた三菱商事に入りましたが、当時は『商社冬の時代』と言われていましたからね」
面白がる才能、やりきる胆力
インターネット産業から冬の時代の商社へ。何の戦略なく足を進めたと中村は言うが、入社後は、ヤフー立ち上げの経験が大いに生きた。三菱商事の数多ある投資先のひとつだった通信事業。データサービスへと舵を切るべく動き出したが、三菱商事側に、インターネットのことがわかる人材がいなかったのだ。「通信会社やシステム会社ではそんなに珍しくない知識だったかもしれませんが、僕はたまたま商社に紛れ込んだインターネットがちょっとわかる若造。優秀だとかではなく、ただ現場と話が通じそうというだけで、その通信事業の前線へ投入されました」
その現場で経験することを、中村はヤフーの立ち上げで、数年前に経験済みだった。