村田が尊敬していたデザイナー、Patrick van Ommeslaeghe(以下、パトリック)との出会いがきっかけだった。ドレスなどのデザインを担当していたパトリックは、デザインする時、裸のモデルに直接布をあて、そのまま歩いたり動きまわったりしてもらう。気に入った一瞬の布の動きをデザインに落とし込み、着る人の人物像や感情を具体的に想像しながら作る「エモーショナルなデザイン手法」だったと村田は強調した。
「一瞬のふるまいの美しさを切り取るパトリックのアプローチは、HARUNOBUMURATAのブランドにも活かしています。感情や人物像に一番重きを置くことは、デザイナー人生において非常に大きな学びでした」
一方で、パトリックと正反対のデザイナーにも出会ったという。ジルサンダーのジャケット部門で一緒のチームだったChristopher Laszlo(下記、クリストファー)は、哲学的なデザイナーだった。
「クリストファーはミリ単位で完璧を求める人でした。ジャケット1枚のフィッティングに平気で2、3時間かけます。その後サンプルを作ったらまた同じことを3回ほど繰り返し、1つの服を完成させます。ウエストの高さや丈の長さ、スリットの深さなどすべて計算し尽くされており、できあがったものはどれも着る人の美しさを完璧に引き出すような服でした」
多様な感性やスキルを持つデザイナーに囲まれて働いたことで、これまでのデザイン手法を見直し、洋服が持つ価値に気づくことができたと村田は振り返る。
ミラノで評価された「日本」とは
村田は日本人デザイナーとしてミラノでも高く評価された。重宝されたのは「手の器用さ」だった。海外のデザイナーはスケッチやプレゼンテーションが上手な一方で、布を扱うことに長けている人はそれほど多くなかったという。「私の強みは思い通りに布を動かし、形にできることです。マネキンや人に布を直接かけて服の型をつくるドレーピングは、誰にも負けませんでした」
同時に、村田は海外で働く中で日本の素材がいかに評価されているのかにも気づいた。当時ジルサンダーでは、素材の半分もが日本から輸入されたものだったという。日本の素材は「当たり前に」良質なものとして世界で認識されていることを改めて実感した瞬間だった。
しかし、世界のトップクラスのデザイナーが集まる街で働く苦労は計り知れないものだったと村田は語る。周囲の人を蹴落としても這い上がり、「心優しい人」が損をするのがヨーロッパのファッション業界の現実だった。
「ファッションの世界は実力主義である一方で、コネクション、自我の強さが大事です。手段は選ばず、うまくリーダーや決裁権を持つ人に近づけた人が出世します。過去にチームの前で大事なプレゼンをする時、私がトップバッターだったのですが、他のデザイナーに順番を横取りされたこともありました。みんな自分の実力を誰よりも早く証明しようと必死だったのです」
そんな環境での村田の戦い方は「実力を証明する機会に成果を出すこと」のみだった。与えられたチャンスに応えてきたことで、ジルサンダーではドレスや軽衣料を手がけるWomenswear designerという誰もが憧れるポジションを獲得できた。人脈がなくても、コツコツ成果を積み重ねることが周囲からの信頼と評価に繋がったと語った。