放棄された山が輝き出す 「秘伝の森レシピ」で挑戦する新しい林業

西野文貴(写真左から2番目)は森林現場の技術を担当し、兄の西野友貴(写真左から3番目)は販売・事務を担当する。自社農場は4.5ヘクタールの広さを持ち、地域の障がい者雇用も行う。苗木栽培の担当者と。

企業が宮脇を頼る理由のひとつに、経済性があった。宮脇方式の森づくりでは、メンテナンスが必要となるのは最初の3年のみ。その後ほとんどの管理が不要である。それ故に、先見性のある企業や行政は、宮脇の森づくりを求めた。
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「そんなものは、偽物だ!」

宮脇は、たとえ相手が大企業の経営者であっても啖呵を切り、ひたすら本物を追求した。徹底した現場主義で森づくりに邁進する姿は、多くの人間を惹きつけた。西野の父もその一人であった。

宮脇の森づくりが熱狂的に支持される理由は、その独自性にある。宮脇が植えるのは、現在の日本の山々を占有するスギ、マツ、ヒノキではない。シイ、タブ、カシという失われていった広葉樹の木々が中心だ。コンセプトは「ふるさとの木による、ふるさとの森づくり」。「潜在自然植生」という理論に基づく。
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植生は、人間の干渉前の「原植生」と干渉後の「代償植生」に分けられる。「潜在自然植生」とは、人間の干渉を停止したと仮定し、その土地で再現される植生のこと。宮脇は、この概念をドイツで提唱者から直接学び、森づくりに本格導入。土地ごとの潜在自然植生を調べ上げ、それに応じた多様な木々を植え、ふるさとの森を再現する。それが、宮脇流の「本物の森づくり」だ。

そうした森は、木材生産のためにつくられた人工の森と違い、災害を防ぐ緑の壁となる。その事実を教えてくれるのが、陸前高田の「奇跡の一本松」だ。メディアで盛んに取り上げられ復興のシンボルとなっていたが、現地調査をした宮脇は憤っていた。

「津波以前、そこには約7万本のマツがあった。1本は残ったとはいうけれど、逆にいえば、7万本は流された。7万本は凶器となり、内陸へと運ばれていってしまった」というのが宮脇の見解であった。

一方、宮脇が森づくりの手本とする、神社仏閣の周りに残された「鎮守の森」は、倒れずに生き残った。潜在自然植生に応じて宮脇らが植樹した木々も、大津波で流された大量の自動車などをしっかりと受け止めてなお、倒れていなかった。「ふるさとの森は、人間の命を守ってくれる」という宮脇の持論は、被災地で証明されたのだ。
神社や祠の周りに残された鎮守の森は、強靭な根をもつ広葉樹が多く、大きな津波にも耐えて残った(米軍撮影)。

神社や祠の周りに残された鎮守の森は、強靭な根をもつ広葉樹が多く、大きな津波にも耐えて残った(米軍撮影)。


以後、宮脇は「いのちの森づくり」をキーワードに活動を加速。瓦礫を入れた盛土に植樹をし、被災地に全長300キロの「森の防波堤」をつくる構想を打ち上げた。当時の宮脇は84歳。「人生最後の仕事」と銘打ち、精力的に活動した。

一方、宮脇の弟子筋の研究室で研さんを積んでいた西野も、このプロジェクトに参加。宮脇と行動を共にし、被災地の現場で共に汗を流した。2021年、宮脇は93歳でこの世を去った。西野は、宮脇最後の弟子となった。
創業のきっかけとなった日本の森づくりの第一人者・宮脇昭とは、父・西野浩行が助手をしていたことから長らく家族ぐるみで親交があった。幼き日の西野は父に連れられて宮脇昭の指導する植樹祭に通い詰めた。被災地での植樹指導にて。(左から、父・西野浩行、宮脇昭、西野文貴

創業のきっかけとなった日本の森づくりの第一人者・宮脇昭とは、父・西野浩行が助手をしていたことから長らく家族ぐるみで親交があった。幼き日の西野は父に連れられて宮脇昭の指導する植樹祭に通い詰めた。被災地での植樹指導にて。(左から、父・西野浩行、宮脇昭、西野文貴)

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文=山本隆太郎 写真=エバレット・ケネディ・ブラウン

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