春山は、以前から宮脇方式の森づくりに興味を寄せていた。「登山者と一緒につくるなら、鎮守の森のような生物多様性に富んだ森をつくりたい」と考え、ヤマップでの森づくりに宮脇方式を採用するべく、宮脇の弟子筋の人材を探した。
「森の設計図を書ける人は、なかなかいないんです」
たどり着いたのが西野であった。春山からみても、西野は稀有な存在だった。潜在自然植生の調査に基づく「森の設計図」が書ける上に、30代と若い。林学博士だが、森の研究ではなく、森づくりを実践している。アカデミックな知識を研究室に閉じ込めず、株式会社での事業へと昇華させているからだ。
「森っていうものは、事業にするのがとても難しいんです。一代でやるのはかなり難しいと、僕は思っています。でも、西野さんは、お父さんが宮脇先生とタッグを組みながら、苗づくりをやってきた。会社のある大分県日出町という場所も素晴らしい。国東半島の付け根なので、日照時間も長く、水も綺麗。苗木づくり、森づくりには最適なんです」
苗木づくりをしている先代、恵まれた自然環境。西野には、森づくりを宿命づけられたかのように、全てが揃っている。春山にはそうみえていた。
「逆に言えば、もし彼が活きる仕組みを現代社会につくれないのなら、二度と日本の山は良くすることはできない。そう本気で思っていますし、それぐらい本質的な取り組みをしている人だと思ったんです」
「新しい資本」の担い手
西野と春山が共に森づくりをする場所のひとつに、英彦山がある。北部九州の三大河川と称される筑後川、山国川、遠賀川の源流でもあり、九州を代表する山の一つだ。日本三大修験道の聖地でもあり、全盛期には800以上の宿坊が建ち並び、数千名の山伏が修行する霊山と栄えた。英彦山の山頂付近には、かつて豊かな森があった。江戸時代に植林された樹齢400年を超える木々だ。しかし、91年に台風で壊滅的な被害を受けて以降、度重なる豪雨や鹿の食害によって、荒れたまま放置されていた。春山はこの現状を「現代日本人の精神性」とつなぎ合わせて考えていた。
「英彦山というのは、特に北部九州に暮らす人たちにとって、精神的にも、環境的にも大切な山です。英彦山が荒れているというのは、今の日本の人たちの山に対する態度の象徴だと思っています。つまり、山から人の気持ちが離れたので、英彦山の山が荒れている。荒れていても、誰も気にしないようになっているわけです」