「勉強はしておきなさい」
学校に通わないまま迎えた中学3年生。進路に焦りを感じつつ、何もできないでいた。そんな井田に、兄(長男)が「何もしないなら働きに出ろ」とひと言。2005年、中学卒業と同時に、働きに出ることを決めた。しかし働いているうちに、亡くなって間もない祖父の言葉を思い出すようになった。進路に迷っていた井田に「学校に行きなさい、勉強はしておきなさい」という遺言をのこしていた。
そこで通信制で中学3年間の学習を取り戻し、高校へ進んだ。高校生活はハードだったと振り返る。
「朝の通学では参考書を読むか、ALT(外国語指導助手)の先生に付き合ってもらって英語を練習するのがルーティーン。昼休みには美術教室でデッサン、放課後はサッカー部か美術部へ顔を出していました。美術部では特別に遅くまで教室を開けてもらって絵を描いて、帰りの電車では勉強をして、家に帰って深夜まで部屋でまたデッサン。そんな日々でした」
井田を猛勉強に駆り立てたのは、祖父の言葉に応えようという想いと、これまで親に迷惑をかけてきたことへの贖罪から。将来の職業として“芸術家”という選択肢を考えはじめたのも高校時代だ。ただ、最初は画家ではなく写真家に興味を持ったのだという。
「森山大道さんの個展を見る機会があって、強く影響を受けました。すぐに父の友人のカメラマンにフィルムカメラを譲ってもらって何百枚か撮ったんですけど、現像すると全然うまく撮れてなくて。写真は難しいんだと実感しました。ただ、写真家をはじめとした”芸術家”という仕事に興味を持ち始めたのは、これがきっかけです」
「画家になろう」と決めた瞬間
そんな高校時代のある日、父が油絵の道具を買ってくれた。このときはまだ、画家という職業とは直結していなかった。将来を模索するなかで、アルバイトで貯めたお金で全国各地へと旅に出た。その道中、京都市美術館で開催されていた展覧会に立ち寄ると、そこに展示されていたモーリス・ド・ヴラマンクの「丘の上の家の風景」が目にとまった。
「当時は誰が描いたのかも知りませんでしたが、この絵を見てすごいショックを受けて、絵の前から1時間くらい動けなくなりました。絵の素晴らしさ、魅力に気づいた瞬間です。“こういうことがしたい”と強く思い、宿に帰る道で画家になろうと決めました」
進むべき道を見つけた井田には、「東京藝術大学」という新しい目標ができた。しかし、名門大学への道は平坦ではなかった。
>>第2回「遺骨」を洗う仕事で気付いた、画家・井田幸昌が生きる意味
◤30U30 AIUMNI INTERVIEW◢
「画家・井田幸昌」
#1 井田幸昌は、なぜ画家になったのか。ひたすら「手」を描いた中学時代
#2 「遺骨」を洗う仕事で気付いた、画家・井田幸昌が生きる意味
#3 画家・井田幸昌が、生涯のテーマ「一期一会」を決めた瞬間
#4 「自分は不良品だ」 画家・井田幸昌がやっと見つけた居場所
#5 井田幸昌が鳥取に凱旋。「変わり続けるもの」と「変わらないもの」とは