坂本さんは、年を追う毎にますます温和で優しくなっていったが、撮影の時は常に一定の緊張感があった。とてもハンサムなのに、最高の一枚を撮るには毎回時間がかかる。意外と自分がどう風に写るかということに無頓着だったのかもしれない。
撮影中にふざけ出してコマネチポーズなんかをして、軌道修正しなければならいこともあった。そんなチャーミングな人だった。再会のたびに満面の笑みを浮かべながら厚みのある両手で僕の手を包み握手をしてくれるのが習わしだった。
坂本さんを起用したニューバランスの広告撮影では、アートディレクターの信藤三雄さんがNYにやって来た。僕とは旧知の仲の信藤さんを坂本さんに紹介すると、二人はあっという間に打ち解けた。信藤さんはその後、坂本さんのCDやPVの仕事のほか、反原発運動も共にしていた。その信藤さんも坂本さんより一カ月ほど前に亡くなってしまった。
NYに移住して8年が経った頃にアメリカ同時多発テロが起きた。その数カ月後に、僕は日本に戻ってきた。帰国前に坂本さんが自宅で送別会を開いてくれた。ダイニングの壁にはアンディ・ウォーホールによる坂本さんのシルクスクリーンが2点飾られていた。
それからも坂本さんが来日するたびに数々の撮影をした。坂本さんが代表を務める森林保全団体more treesや震災復興プロジェクトkizunaworld.org、反原発イベントNO NUKESなどの社会活動に参加し、国会議事堂前の安保関連法案に反対するデモにも同行した。環境、社会問題、未来を生きる子どもたちたちに対して常に真摯に取り組む背中を見続けて来た。
2011年からは雑誌「婦人画報」で、『耳の記憶』という連載が始まった。坂本さんが幼少期から慣れ親しんだクラッシックの曲についてのエッセイ。僕は扉写真を担当したのだか、毎回事前に共有されるのは坂本さんが選んだ曲のデータのみ。繰り返し曲を聞き、そのイメージに合わせを撮影した写真を提供した。
刷り上がった雑誌の中で初めて、坂本さんの言葉と僕の写真が組み合わさる。エッセイと写真のイメージが上手くマッチしてることが多く、毎回刷り上がりが届くのが楽しみだった。連載は、闘病による休止を挟んで48回続いた。