「戦闘」は終わっても「戦争」は続く。元ウクライナ在住カメラマンが考える難民支援

ウクライナ西部で孤児院を運営していた修道女がルハーンシク在住時代の知り合いの9人の子供とともにワルシャワ近郊に逃れてきた(糸沢さんの長女の撮影)

日本人カメラマンの糸沢たかしさん(58歳)は、2001年にウクライナの女性と結婚して、ふたりの子供にも恵まれ、2014年まで夫人の家族が住むルハーンシク(ルガンスク)で暮らしていた。

しかし、当時の「2014年ウクライナ騒乱」に端を発する、ドンバス地方(ドネツィク州、ルハーンシク州)における独立派とウクライナ政府軍との紛争の勃発で、一家はルハーンシクからの避難を余儀なくされ、1年間日本で暮らした後、現在はポーランドに移住している。

筆者の古い仕事仲間でもある糸沢さんは、2月下旬に日本へ一時帰国。ちょうどそのとき今回のロシアによるウクライナ侵攻が起こり、都内で何度か彼の話を聞く機会を得た。

「いまウクライナ全土で起きていることは、8年前に私たちの家族が経験したことと同じです」と語る糸沢さん。前編では、かつて一家に降りかかった出来事を彼の口から語ってもらった。後編は、その後の彼らの暮らしと今回のロシアによるウクライナ侵攻に対する思いを、糸沢さんから聞いて、以下に筆者がまとめた。


日本から戻った2015年7月以降、私たち一家はワルシャワで暮らしていました。ただし、ポーランドの永住権を持っているのは妻だけでした。ポーランド政府は、第二次世界大戦前にポーランドを離れざるを得なかった旧ソ連の住民の子孫に対して永住権を与えていたからです。


ワルシャワの旧市街

家財をそのまま残してきたルハーンシクは無理でも、妻の妹夫婦が住むウクライナの首都キーウに住むことも考えました。しかし、生活の基盤を一から始めるという意味で、大変であることは変わりませんでした。

私と子供たちは日本国籍なので、長期滞在者として数年おきに住民登録を延長しなければならなかったのですが、妻には永住権があり、ポーランドという国もウクライナとは歴史的にゆかりがあり、友好的なことも住む理由としては大きかったのです。家族で何度も話し合ったうえ、もうどこにも逃げることなく、ポーランドで生活を始めようと決めました。

ポーランドはカソリックの国で、妻はルハーンシクに住んでいた時代に入信しており、そこで知り合ったポーランド人神父の知遇も得ました。その縁もあり、妻はポーランドカソリック司教会議事務局に勤めることになりました。


ルハーンシクのカソリック教会。現在は閉鎖

ソ連崩壊後、ウクライナでは宗教の禁令の時代から思想・信条・宗教が自由に選べる時代になっていました。ソ連時代に破壊された東方正教会の教堂が次々と建て直され、一方で各地にカソリック教会も建てられ、布教が行われました。

妻も心の拠りどころを必要としていたのだと思います。彼女の祖母がポーランド出身だったことも、東方正教会系ではない教派に身をゆだねる理由だったかのかもしれません。

子供たちは、現在、ポーランドの学校に通っています。「彼らは3つの国の学校に通ったおかげで、ウクライナ語、ロシア語、英語、ポーランド語、ドイツ語、日本語を話します。

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ポーランド北部のバルト海への糸沢家の家族旅行

私たちがポーランドに移り住んでからも、ウクライナからの移住者はたくさんいて、同じ学校に通うようになった子供たちもいます。

ポーランドでのウクライナ難民支援の現実


こうしてワルシャワでの生活が日常となった今年2月、ロシア軍のウクライナ侵攻で、私たちの生活は再び大きく変わることになりました。ポーランドでウクライナ難民の受け入れが始まったからです。

メディアが報じたところによれば、ウクライナでは1000万人以上が今回のロシアによる侵攻のために住む家を離れ、500万人が近隣諸国へ避難したと言われています。うちポーランドには最大の約270万人の人たちが逃れてきています。
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文=中村正人 写真=糸沢たかし

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