経済・社会

2022.04.22 19:00

あの時と同じことが起きている。日本人カメラマンが目撃したウクライナの「戦争」

彼方まで広がる美しいひまわり畑と青空の風景はウクライナ国旗のモチーフになっている

「私がかつて住んでいたウクライナ東部のルガンスク(ルハーンシク)の郊外には、ひまわり畑が地平線まで広がっていて、よく写真を撮りに出かけたものでした。

8年前、ひまわり畑は戦車に踏み荒らされ、砲弾が投下される戦場となりました。そして今年、また同じことが起きてしまいました。いまウクライナ全土で起きていることは、私たちの家族が経験したことと同じです。多くの人たちが住む土地を追われ、命の危険にさらされているのです」

こう語るのは、2014年までウクライナに住んでいた日本人カメラマンの糸沢たかしさん(58歳)。2001年に現地の女性と結婚して、ふたりの子供にも恵まれ、10年以上を夫人の家族の住むルハーンシクで過ごした。

しかし、当時のヤヌコーヴィチ大統領が失脚した「2014年ウクライナ騒乱」に端を発する、ドンバス地方(ドネツィク州、ルハーンシク州)における独立派とウクライナ政府軍との紛争の勃発で、糸沢さん一家はルハーンシクからの避難を余儀なくされた。現在、一家はポーランドに移住している。

糸沢さんは、筆者の古い仕事仲間で、2月下旬に日本へ一時帰国、ちょうどそのとき今回のロシアによるウクライナ侵攻が起きた。この時期、都内で何度か彼の話を聞く機会があった。以下は、筆者が糸沢さんから聞いた話をまとめたものだ。


1998年の夏、私は東欧のスロバキアを旅行中、聖歌隊のコーラスグループとして同地を訪れていた妻と知り合い、3年後に結婚、ウクライナのルハーシクで暮らし始めました。

若い頃、オーストラリアやカナダでワーキングホリデーを体験し、カメラマンとして世界各地を長く旅してきましたが、ソ連崩壊からわずか10年余りという2000年代のウクライナの暮らしは、それほど楽なものではありませんでした。

現地に住む唯一の日本人として、美術大学の写真学科で講師の職を得ましたが、支給される給与は日本の4分の1ほど。普通に暮らすには困らなかったのですが、年に2回、春と秋に日本に一時帰国してカメラマンの仕事は続けていました。

当時、私たちはルハーンシク市内の「ソビエト社会主義共和国連邦創設60周年記念団地」の一室に住んでいました。1970年代に建設されたものでしたが、旧ソ連崩壊後もこうした名称の団地は残っていました。


糸沢さんの住んでいたルハーンシクの団地から見た町の風景。煙突は都市暖房用の施設

ウクライナ東部に位置するルハーンシクは、人口約50万人の炭鉱と重工業の都市でした。ここにはロシアとウクライナの両国の人たちが職を求めてやって来ていました。市民の母語の比率は大まかにロシア系8に対してウクライナ系2くらいで、生活言語はロシア語でした。子供たちはウクライナ語を学校で学んでいて、それは外国語を学ぶというよりは国語が2科目あるという感じです。

歴史的にはクリミア半島に近いことから、ルハーンシクにはギリシャ系やコーカサス系、タタール系などの住民も多いです。彼らもかつてはソ連の国籍でした。

私が教える写真学科にはロシアから来た学生もいました。ただし、彼らは外国からの留学生というより、学区を超えて編入してきた近隣の人々のような存在でした。


写真学科の学生と一緒に野外学習へ。2014年の紛争で全員、域外へ避難し、いまは離散状態。現在、この場所はロシアの占領地に

生活実感としては、独立派とウクライナ政府軍との紛争以前には、民族同士の反目があったとは思えませんでした。むしろその後、双方がプロパガンダを応酬した結果、住民の間での反目や離反が生まれたと感じています。
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文=中村正人 写真=糸沢たかし

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