経済・社会

2022.04.22 19:00

あの時と同じことが起きている。日本人カメラマンが目撃したウクライナの「戦争」

彼方まで広がる美しいひまわり畑と青空の風景はウクライナ国旗のモチーフになっている


「ロシア化」というより「旧ソ連化」


ルハーンシクでは1週間ほどの滞在でしたが、私はこの2、3年で町の様子や人心がすっかり様変わりしていることを知りました。市内から避難した住民の住居や公共施設の多くは反政府軍に接取されていました。地元のスーパーにはロシアの製品ばかりが並んでおり、街中には「ルガンスクはロシアだ」といったプロパガンダポスターが貼られていました。
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「自身の愛情を他人に与えることほど偉大な愛情はない ルハーンシク人民共和国首長イゴール・プルトニツキー」独立国建設への協力を市民に求めるスローガン。プルトニツキーは2016年に暗殺された(糸沢さんの友人が撮影)

自分が教えていた地元の大学は、以前はウクライナの著名な詩人であるタラス・シェフチェンコの名前を冠していましたが、ロシア風の「ルガンスク大学」という名称に代わっていました。このように通りの名前や地名の多くがロシア風に変更されていました。

もともと自分の町だと思って里帰りしたのに、別の町になってしまったような違和感がありました。しばらくぶりに自分の家に戻ったら、別の人が住んでいたというような感じです。
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地元風ではないロシア語を話す人もよく見かけました。ルハーンシクに残った地元の友人たちが自宅を訪ねてくれましたが、お互い政治的な話題を避け、以前のように気兼ねなく旧交を温めることができませんでした。

奇妙なのは、ルハーンシクで起きていた変化は、「ロシア化」というより「旧ソ連化」のように感じられたことです。それまでロシアにも西側に向かって開かれた側面もあり、教育も旧ソ連時代とは異なり英語やITなどを自由に学んだ若い世代が育っていました。それだけにそこで感じた「旧ソ連化」は驚きでした。ロシア国内でも見られないほど徹底したものだったからです。

以前は大多数の住民が「何のための独立なのか」と反政府軍の蜂起に疑問を呈していましたが、妻の母親は「この地を離れ、キーウに行くのが怖い」とも話していました。反政府軍に支配されている地域の住民は、迫害されると思っていたからでした。


ルハーンシク市内を通過する軍事車輛(糸沢さんの友人が撮影)

それは、外部からの情報が遮断され、かつて複数あったウクライナ系のTVチャンネルは多くがモスクワからの放送に代わり、親ロ政権の報道にしか触れられないせいだろうと感じました。

支配地域の住民の人心をコントロールし、現状を受け入れさせるための旧ソ連的とでもいうべき、ひとつのシステムが採用されていると思わざるを得ませんでした。

紛争が始まった当初は住民に不安を盛んに煽り、ロシアが救済者であるとの認識を植えつける。支援金なども支給する。しかし、支配地域の住民には以前のような暮らしが戻ることはなく、生活上の困難が起こりました。

たとえば、ウクライナ系の銀行は閉鎖されたために、ウクライナ国籍のままだと、年金を受け取るために、ウクライナ政府側の支配地域に行かなければならなかったのです。私たちが里帰りのために渡った境界の橋を、老人たちが同じように歩くのは困難で、実際に事故が起こったり死者も出ていたりしました。

こうして期待から落胆、落胆から不満へというプロセスを繰り返していくうちに、「ウクライナであろうとロシアであろうと、自分たちはここで生きていくしかない」と、住民たちは諦めの境地に至るのです。(後編に続く)

※ウクライナの地名は、基本的にはウクライナ語に近い発音で表記していますが、一部ウクライナ東部のロシア語圏の地名については、糸沢さんの話に合わせてロシア語に近い発音の表記も含んでいます。また本稿執筆時点では、ウクライナ東部は再びロシア軍との激戦地となっており、多数の避難民や避難から取り残された住民、多くの死者も出ています。

過去記事はこちら>>

文=中村正人 写真=糸沢たかし

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