経済・社会

2022.04.22 19:00

あの時と同じことが起きている。日本人カメラマンが目撃したウクライナの「戦争」

松崎 美和子
4597

私の妻はユダヤ系ポーランド人の祖母を持つ、旧ソ連生まれのウクライナ人です。生まれたのは旧ソ連中部のノヴォシビルスクで、1980年代に、医師である父親がルハーンシクに赴任となり、家族で移住してきたといいます。妻は神経科の医師として当地の病院に勤めていました。

妻のように旧ソ連に住んでいた人たちは、「先祖のいた国、本人の生まれた国、現在居住している国がそれぞれ別」というのも少なくないのです。

2014年ウクライナを離れ家族で日本へ


この地で紛争が始まった2014年の春、私は事態が急変していることを感じていました。

まずここに住む人たちが、それはロシア人もウクライナ人も同じですが、ルハーンシクからの避難を始めていました。そして、ドネツィク方面に向かうと思われる軍事車両が公然と街を走り抜けるようになりました。

大学病院には負傷兵が次々とかつぎ込まれていました。ウクライナ軍の武器庫が襲われ、持ち去られた銃器を手にした若者が市内の店を襲う事件も起こるなど、治安の悪化は明らかで、戦闘が日増しに身近なものとして迫っていることは間違いありませんでした。

6月になり、子供たちの学校が夏休みに入ったことで、私たち一家は一時的に避難するつもりで日本へと向かい、結果的に約1年間東京で暮らすことになりました。


日本への帰国便の機中で航空会社の「家族サービス」で撮影されたポラロイド写真

長女と長男は、日本の小学校に通うことになりました。ルハーンシクの大部分が「ルガンスク人民共和国」政権の実効支配地域となり、すぐには戻れない情勢になってしまったからです。

慣れない日本での暮らしは家族にとって安泰とはいえませんでした。私たちはいわゆる「難民」ではありませんでしたが、当時、はるか遠いウクライナからやってきた人たちを、日本の社会が受け入れるのはそれほど簡単なことではなかったと思います。

まず私たちにとって、文化や宗教、生活習慣などの違いや言葉の問題が外的ストレスになります。幸い近所にあったカソリック教会や在日ウクライナ人コミュニティとの交流ですいぶん救われましたが、自分たちはいつまでここにいて、次はどこに行けばいいのか、それが見えないことがいちばんつらかったです。

3年目の2017年夏、当時、私たち一家は日本から戻りポーランドのワルシャワで暮らしていましたが、妻の両親が住むルハーンシクに里帰りしました。

以前は800キロメートルほど離れた首都のキーウ(キエフ)からの直通列車がありましたが、反政府軍の実効支配地域に入るには、いったんウクライナ東部のルビージェネという町で下車し、検問所のあるスタニーツァ・ルガンスクまで乗り合いタクシーで行かなければなりませんでした。

ルハーンシク郊外のウクライナ政府軍と反政府軍の支配地域を分けるドニエツ川に架かる橋は爆破され、市内に入るには検問所のある唯一の橋を徒歩で渡らなければなりませんでした。以前この地に住んでいたとはいえ、「外国人」である私は両軍の検問所で長時間、尋問されました。


2014年の激戦で落とされた橋(ドニエツク州スラビヤンスク)。現在、再び激戦地に

500メートルほどの長さの橋とそのたもとの道を含めると約2キロメートルはある緩衝地帯を、砲撃された民家を横目に見ながら私たちは歩きました。道の両側には地雷が埋められていました。ようやく反政府軍の検問所を抜けると、妻の両親が車で迎えにきてくれていました。


2014年に破壊された家屋(ドニエツク州スラビヤンスク)。現在、再び激戦地に


政府支配地域から反政府支配地域へと渡る回廊から見える標識。ウクライナ語で「地雷」とある
次ページ > 「ロシア化」というより「旧ソ連化」

文=中村正人 写真=糸沢たかし

タグ:

連載

Updates:ウクライナ情勢

ForbesBrandVoice

人気記事