──西嶋さんは主に花や自然をメイン・テーマとした作品を世に送り出していらっしゃいますが、その特別な思いについてお話しして頂けますか?
西嶋豊彦(以下、西嶋):それは僕が「ディスレクシア」という特殊な症状を抱えていることに大きく関わっていると思います。実は、僕自身がそのことを初めて知ったのは50代になってからのことなのですが、特に学校での音読の時間は文字を上手く読むことができず、そのハンディは並大抵のものではありませんでした。
でも、当時は「ディスレクシア」という言葉さえ存在していなかった頃のことですから、僕の症状を今のように医学的に説明することや理解を得ることは難しく、周囲は僕に対してただ単に「字が読めない特殊な子」という見方をしていたのではないかと思います。ですから、僕はいつも周囲の偏見や学校の在り方などに常に反発し、憤りを感じながら育ってきたような気がします。
とにかく本を読んでいると文字が粒状に見えて、一つの文字を読み終えると前の文字が記憶から消えていってしまう。単語や文字の理解が出来ず、漢字を覚えることも難しいので、文章を理解するスピードも当然遅くなってしまいます。今思えば、そのハンディを跳ね除けるために、ひたすら「絵の世界に没頭し、そこに自分のエネルギーを注ぎ込む必要があったのかもしれません。
文字で理解できない分、普通は五感でキャッチする感覚をそれ以外の六感も駆使して莫大な量の情報を手にすることが必要だったんです。ですから、僕の場合は学校で学ぶというより「生きることや毎日の営みそのもの」を野に咲く花や、そこでさえずる鳥の声を通して自然界から感覚的に学ぶことしかできませんでした。
雨格子
ディスレクシアを活かし、表現される多様性
──ご自分が「ディスレクシア」であるということを知った後、作風を含めてどのような変化があったのでしょうか?
西嶋:僕の場合、「文字を読むことが苦手」というハンディ以外は、自分でも自信過剰ではないかと思うくらい自信に満ち溢れる側面があって、僕はこれを「感情の凸凹」と呼んでいるのですが、心の起伏の幅に大きな揺れがあるような気がします。とにかく次から次へと次元の異なる発想が生まれてきてしまう。
その中には、過激なアイディアも含まれていて、自分の中にある非普遍的な要素をなかなか分かってもらえなかった。でも、文字を通して理解することが難しい分、ディスレクシアという症状を持っているからこそ「自分と感性が合うもの」や「自分が好きで得意なこと」ことを見つけると「特異な集中力」を発揮するという素晴らしい一面も兼ね備えていると自負しています。
僕は自分が「ディスレクシア」だと分かってからは「他の人たちと違っていてもいいんだ」という安心感を手に入れ、今でこそ社会的な認知を得て、ポジティブに受け入れられている「多様性」や「多面性」を素直に表現し、より大胆な作品作りができるようになったと思います。