多分皆さんもご存知かと思いますが、ハリウッド映画俳優の「トム・クルーズ」をはじめ、「ET」や「ジョーズ」の映画監督「スティーブン・スピルバーグ」、アメリカ合衆国元大統領の「ジョージ・W・ブッシュ」もディスレクシアであることは知られていますし、さらにノーベル物理学賞を受賞した「アルベルト・アインシュタイン」もディスレクシアであったという説があります。
──その中で、自分の中で一貫して変わっていない原点があるとしたら、それは何だと思いますか?
西嶋:「光と温もり」を自然の原点と捉え、それを基に肉眼では観ることができない「花の表情や香り」を通して花の内面と向かい合い、話をしながら創作活動を続けているという点が一貫して変わらない点ではないかと思っています。つまり、表現者としての西嶋豊彦が「自然の中で咲き乱れる花の生死を紡ぐおくり人」だという思いを抱えながら創作活動を続けてるんです。
自分自身が生きる過程の中で、「光と温もり」によって救われたという経験を持っていて、芸術家として作品を通してそのことを皆さんにお伝えし、感じて頂ければと思っています。僕の創作活動の変わらぬ原点は多分そこにあるのではないかと思います。
──自分の内面を「鏡と対峙するほど」深く見つめ、「死との直面」を経験した経緯があると伺いましたが、その頃の作品について少し触れていただけますか?
西嶋:多分、数多くの人たちが生きる過程の中で「何故、自分がここに存在しているのか?」「何のためにこの世に生を授かったのか?」、自分自身と対峙して自問自答を繰り返す「哲学的」な時期を経験しているのではないかと思いますが、僕もまた例外ではなく、生と死の間に立ちはだかる「ブラックホール」のような力に引き寄せられてしまったんです。
生きる上での言うに言われぬ深い「疑問」や「孤独感」が僕の中にある暗い側面と重なり、僕の気持ちにさらに拍車を掛けていたのかもしれません。そうした状態が4年間ほど続いたのですが、その間の作品はすべて自画像で、一点一点を最後の作品だと思って描き続けていました。
実は、その期間に2回にわたる個展を開催しているのですが、母親と一緒に会場に来た子供が「墓場」だと言って、お母さんの足に抱きついて泣き始めたり、ある老人からは「戦争経験もしていない君がなぜこのような絵を描けるのか」と聞かれたことを今でもよく覚えています。
──そうした「死との対峙」という感覚は自分がディクレクシアであるという自覚と関連したものがあるのでしょうか、それともただ単に生きる道すがら多くの人が哲学的に考える「死生観」や「自我」の目覚めとの向かい合いからきているのでしょうか
西嶋:もちろん、自分が持つディスレクシア症状の影響もあるかもしれませんが今思えば、それは芸術というものに目覚め、真摯に向かい合う過程の中で避けることができない、一人の芸術家としての「死という意識との闘い」であったと思います。
朝も昼も夜もない結末