最終的には物理学者が「天然真珠と養殖真珠は成分において変わらない」という趣旨の証明をすることで、ミキモトの養殖真珠は晴れて「本物の」真珠として認められることになります。物理的な組成において「本物」と認められたわけですが、「天然=本物」の見方が残るなかで、「養殖=人工=偽物」という見方はくすぶりのまま残っていました
ただ、ミキモトにとって幸運なことに、当時はまさに、シャネルが「本物でも偽物でもミックスしてじゃらじゃらつければいいのよ」とばかりパールファッションを流行させていた時代。このムードが、「本物」と「偽物」の評価の間で揺れ動いていたミキモトの真珠の受容を後押ししたことは間違いないと思います。
物理的組成において「本物」であるならば、現在、普及が拡大している人工ダイヤモンドも「本物」として堂々、ダイヤモンドの仲間入りをするわけですね。
「コピーされることは本物の証」
さて、ジュエリー界の判断はいったんさておき、ファッションの知財の話に戻しますと、シャネルがコスチューム・ジュエリーをファッション化したことで、(洋服、バッグと同様に)シャネルのロゴをつけたアクセサリーのコピー商品も大量に出回ります。
それに対してシャネルは、「コピーされることは本物の証」としてまったく動じませんでした。彼女自身は「モード、それは私」という言葉に象徴されるように、世が本物/偽物をめぐって右往左往すればするほど自身のブランド価値を上げていきました。
ジャン・コクトー(中央)と歩くココ・シャネル(左、1958年撮影、Getty Images)
現在のシャネル社は他のハイブランドと同様、コピー商品に対して厳格な態度をとっていますが、ココ・シャネルの生存時にはなぜコピー放置の氾濫がかえって本物のシャネルの価値上昇に貢献することになったのか。ビジネスはほんとうに毀損されなかったのか。時代がのどかだったためか、シャネル本人とシャネル製品の稀有な特質のためなのか。
いまだ私のなかではナゾのままですが、「モード、それは私」と言い切り、本物のモードたる自分が生み出すものは世間の評価を覆して本物になるという創造を続けたシャネルの態度は、ラグジュアリーを作り出す側のインスピレーションの源泉になるはずです。
連載:ポストラグジュアリー 360度の風景
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