ポストラグジュアリー 360度の風景

Getty Images

新しいラグジュアリーが浮上してきた背景にはいくつかの要素があります。そのなかのひとつが、西洋文化の権威の失墜です。

1970年代の日本に起きた第一次ブランドブームを後押ししていたのは、西洋文化への憧れでした。憧れのパリ、ロンドン、ミラノ。製品の背景には文化的に「進んだ」西洋の都市光景の幻影が広がり、その光景を含めたストーリーに没入させられた日本人は、魔法にかかったように大枚をはたいていたのでした。その世界観のなかで西洋文化は日本より「上」にあり、西洋都市に本拠を置くブランドは、いわば植民地の宗主国のような存在だったのではないでしょうか。

昨今の「炎上」案件の背景とは


コンプレックスを否応なく強いられた植民地の民は、どんなに宗主国の文化を学んでも対等になることはできず、その価値体系のなかで生きる限り、永遠にコンプレックスから抜け出せず、結果、システムの枠内における下位の同胞同士で無意味な優劣競争をする羽目になるという仕組み。つい最近まで、一部の紳士服世界でもこの現象が見られました。

「紳士服の本場」たる宗主国イギリス、あるいはイタリアのルールや美学を規範として崇め、その価値体系に全面的に従い、下位文化の潜在的劣等感に気づかないふりをしたまま与えられた価値基準のなかで評価を求め、ルールを知らない(あるいはルールに従わない)同胞を批判・啓蒙するという構造が根強くありました。


紳士服のテーラーが並ぶロンドンのサヴィル・ロウ(Getty Images)

直近では日本の風土に合った日本独自の美学を誇ろうという動きも活発ではありますが、もしかしたら一部ではまだ、コロニアリズムの幻影が残っているかもしれません。しかし、時代は大きく変わりました。

多文化主義を進めてきたヨーロッパは、人道的に寛大であろうとしましたが、その結果もたらされた現実を見るにつけ、もはやハイブランドを支えてきた「憧れ」の根拠が見つけにくくなっています。このあたりはダグラス・マレーの『西洋の自死』のなかに、より具体的、より衝撃的に描かれています。

憧れのパリ、魅惑のロンドン、洗練のミラノは歴史のロマンのなかには発見できますが、その幻影と現状の落差はあまりにも大きい。かつてのような文化の高低の差がなくなったいま、インドや中東、中国では自国の中から新しいラグジュアリーを創出しようとしています。

日本も例外ではなく、とりわけパンデミックにより海外との交流が希薄になった昨年から、自国の優れた製品やサービスを掘り起こし、それらに脚光を当てて国際競争力をつけていこうという動きが目立ってきています。

そのように「独立した植民地」側がそれぞれに覚醒しているのに、宗主国側がいまだに「ラグジュアリーの本場はこちら側だ」という態度や意識を変えないところに、昨今の「文化の盗用」問題の根もあるのではないかと思います。宗主国側が多様性を口実に、自分たちの文化には見られなかった表層を都合よく拝借する。相手の文化を深く理解しようともしないそうした無自覚なふるまいが、「いつまで宗主国の気分でいるのだ」という暗黙の怒りとともに叩かれているという構造を、数々の炎上現象に見ることができます。

文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

ルイ・ヴィトンシャネルブランディング
この著者の記事一覧へ

PICK UP

あなたにおすすめ