実際にどのように刷新されていくのでしょうか。それを考えるための土台として、ラグジュアリーとは何であったのか、その歴史をファッション史の視点から概観してみます。
「ラグジュアリー=贅沢」だけではない
海外に比べて日本でラグジュアリービジネスがそれほど盛り上がらないように見えるのは、「ラグジュアリー」の日本語の訳語として充てられてきた「贅沢」という言葉にも一因がありそうです。
贅沢とは、最低基準の生存には不必要な、余剰。日常の必要を超えて、エネルギー(お金や時間)を過分に使うこと。こうした言葉のイメージが連想され、清貧を美徳としたい大方の日本人には好意的に受け止められないか、看過されることも少なくありませんでした。
しかし、西洋文化におけるラグジュアリーは、ややニュアンスが異なります。たとえば、英語の「Luxury」という言葉ひとつにしても、語源をたどると、3つの含意を発見できます。
まず、中世のluxurieすなわちlust。色欲、淫乱という意味です。次にラテン語のluxus。これは(植物が)繁茂しすぎる、という意味。さらに近代以降は、フランス語のluxeの影響を考慮することが必須になってくるのですが、この文字のなかには、光の単位が含まれています。つまり、光り輝くもの。
西洋文化におけるラグジュアリーには、この3つのエッセンスが見え隠れしています。誘惑的であり、豊かさを表すものであり、光り輝くもの。時代の推移とともに、この三要素の基準も大きく変わります。
20世紀、ラグジュアリー更新合戦に至るまで
王族・貴族が社会の頂点にあって絶大な権力をふるっていた時代には、たとえば女性のファッションだけを例にとっても、それこそ金糸銀糸を縫い込んだシルクの織物をふんだんに使い、スカート拡張装置を使ってまで布を広げ、その上に光り輝く宝石をちりばめていたのが、ラグジュアリーでした。
話の流れをわかりやすくするために極端な表現をさせていただきますと、稀少で高価な光りものの誇示が富や地位の特権的独占と結びつき、誘惑力にも直結していた。それが中世ラグジュアリーの世界でした。
映画「マリー・アントワネットの生涯」(1938年)より(Getty Images)
産業化社会が進み、資本家が社会の上位層を占める19世紀に入ってくると、ラグジュアリーも複雑に、多様に、変容します。金銀宝飾品や豪華なドレスという単純に光り輝くものが定番化を超えて陳腐となりつつあるなかで、デザイン、文化、職人技巧、歴史遺産といった、よくいえば知的な、悪く言えば秘儀的な要素が「豊かさ」「誘惑力」の基準として浮上してきます。
新興ブルジョワが、ステイタスがあいまいな自分たちを輝かせる“新しいラグジュアリー”として求めたのが、まさしくこの種の基準でした。たとえば、この時期に支配層を形成した男性は一見黒いスーツのシステムに隠れ、ジェントルマンズクラブで排他的にこの種のラグジュアリーを発達させていくことになります。現在も老舗として根強い、支持を得ている紳士系ブランドの創立年の多くは、ほとんどこの時代に生まれています。