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2019.08.08 08:00

コードネームは「Brazil(ブラジル)」|アマゾン ジャパンができるまで 第4回

連載「アマゾン ジャパンができるまで」第4回

連載「アマゾン ジャパンができるまで」第4回

世界最大のECサイト、アマゾン。昨年、Prime会員数は「全世界で1億人突破」とも報道された。

今から19年前の2000年11月1日深夜0:00。日付が変わった瞬間、その米国の巨大サイト、アマゾンの日本ドメインがインターネット上に生まれた。「アマゾン ジャパン誕生」。すなわち「http://www.amazon.co.jp」のURLがアクティブになった瞬間である。

しかしその胎動は、遡って1997年頃から始まっていた。そしてそこには、まったく知られていない物語の数々があった。



アマゾンのVPアジアに就任したカール・ホフマンが日本のカントリーマネジャーを採用したのは、アマゾン ジャパンがローンチする約1年半前の2000年2月のこと。「それなりの規模の組織を束ねた経験のある、然るべきスペックの人材」として、長谷川純一に白羽の矢が立った。

長谷川は1985年、人工知能などの開発で知られる米国シンボリックス社の日本法人立ち上げに関与。その後はERPベンダーである「ピープルソフトジャパン(現・日本オラクルインフォメーションシステムズ)」の設立メンバーとして活躍したことでも知られる人物だった。

「アマゾン ジャパンは失敗する」

当時アマゾン ジャパンの社員数は、わずか5人。そのなかに、1999年から日本でのオークションサイト立ち上げも含めてのミッションを与えられていた西野伸一郎の姿もあった。


アマゾン ジャパン立ち上げ時のカントリーマネジャーだった長谷川純一(中央)、物流/ロジスティックス部門の責任者だった瀧井聡(右)、ブックス・ゼネラルマネジャーを務めた西野伸一郎

当時、米国本国以外にアマゾンが進出していた国は、ドイツと英国の2国のみ。これに続く日本のサービスを立ち上げる上で、「何から始めるべきか」という切迫した議論が改めて展開されていた。やはり、原点である書店なのか、オークションなのか、またはこれまでのアマゾンになかった新しい形態なのか。

アマゾン・ドット・コムは、オークションで「イーベイ」に遅れを取っていたため、その苦い経験を生かして日本の立ち上げはオークションから、という計画もあった。だが、日本でもこの頃すでに1999年9月に「ヤフー!オークション」がローンチし、その半年後にはイーベイ・ジャパンが立ち上がり、すでに遅きに失したという判断が勝ったのである。

そして結局、アマゾン ジャパンをオークションサイトからスタートするプランは撤回され、書店から立ち上げることが決定する。オークションサイト立ち上げの準備をしていた西野も、再び書店立ち上げの準備に戻っていた。

アマゾン ジャパンがローンチするまでの日々の記録は、資料などを捨てずに保管しておく習慣のある長谷川の、「Amazon」と書かれた箱の中に今も残されている。

たとえば長谷川が日本のカントリーマネージャに就任した2000年当時、アマゾンの日本進出プランは、国内ではどのように受け取られていたのだろう。日本におけるオンライン書店事情について、長谷川のメモにはこうあった。

「既存のオンライン書店が熾烈な競争を繰り広げ、さらに楽天ブックスやbk1など数社が、オンライン書店の参入を表明。そのなかアマゾンは、『日本市場進出のタイミングを逸した』との見方も」


長谷川はローンチ時の資料を保管していた

当時の大手新聞をめくってみると、立ち上げ前から、「アマゾン ジャパンは失敗する」と予測する声が多く上がっていた。すでにオンライン書店は数社立ち上がってしまっていたが、問題はそのタイミングの問題だけではなかった。

米国のアマゾン・ドット・コム成功の一因は、「商品の安さ」だった。「ブックス」のストアに並ぶ多くの本がディスカウントされていたが、日本の出版流通業界には、定価販売を義務づけた「再販制度」という独特のルールがあるため、値引き販売はできない。親サイトの強みを踏襲できないのでは成功しようがないではないか、という理屈である。


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文=石井節子/福光恵 構成=石井節子

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