今から19年前の2000年11月1日深夜0:00。日付が変わった瞬間、その米国の巨大サイト、アマゾンの日本ドメインがインターネット上に生まれた。「アマゾン ジャパン誕生」。すなわち「http://www.amazon.co.jp」のURLがアクティブになった瞬間である。
しかしその胎動は、遡って1997年頃から始まっていた。そしてそこには、まったく知られていない物語の数々があった。
日産のアムステルダム支社をはじめ海外での物流経験が豊富で、のちにアマゾンの物流部門「アマゾン・ロジスティックス」の初代代表にもなる瀧井聡(第4回参照)。彼は長谷川、西野という2人のメンバーと面接後、ローンチまで半年を切った2000年の7月に正式に採用される。
そして、その採用面接の過程で、物流のローンチプロジェクトのチームリーダーだったデーブ・ラドンに、こんな相談を持ちかけられる。
「東京の5階建てと、千葉の2階建て。アマゾン ジャパンの倉庫にはどっちがいいだろう」
eコマース全盛の現代は、東京湾岸に多くの巨大倉庫が建ち並び、倉庫を探すのは容易になった。が、当時はまだeコマースの黎明期。巨大倉庫は数えるほどしかなかったが、瀧井は迷わず「千葉の2階建て」を選んだという。理由は単純で、階数が多いだけ垂直の動きが多くなり、入手出荷キャパシティのボトルネックになるからだ。
「迷わず選んだのは、千葉の2階建て」と瀧井
ちなみにその倉庫は、元々大手ヘルスケアメーカーが使っていた。同社が手がけるドッグフードを保管するための倉庫だったといい、アマゾンが入居してしばらくは、「ドッグフードの残り香の中で」立ち上げ準備がおこなわれていたそうだ。
物流の知識より、とにかくタフネス?
秘密裏に進められていたローンチの予定日が刻一刻と近づくなか、瀧井は取次との、前述の「EDI」の構築も担当。そのほか物流にまつわるさまざまなデータや書式の日本語化にも携わった。
当時の倉庫はもちろん自動化されていない。だから、商品が倉庫に届くと、バーコードを読んで、棚に入れて……といった作業を、やはり自動化されていない英国の倉庫に出向いて研修したという。シアトルはすでに自動化、電子化が進んでいて、研修先には適さなかったための、英国留学だった。
現在のアマゾンのFC(フルフィルメント・センター。当時のディストリビューション・センター)では、瞬時にスキャナーのディスプレー画面に表示される「番地」(商品が置かれている棚の場所)も、昔は紙に書かれた「1-2-3番地に行け」などという指示を「目で見て」ピックするアナログ方式だったのである。
2001年2月刊行「別冊週刊ダイヤモンド ビットビジネス 大特集 アマゾン ジャパン ウェブサイトから物流まで完全解剖」に掲載された瀧井の記事