今から19年前の2000年11月1日深夜0:00。日付が変わった瞬間、その米国の巨大サイト、アマゾンの日本ドメインがインターネット上に生まれた。「アマゾン ジャパン誕生」。すなわち「http://www.amazon.co.jp」のURLがアクティブになった瞬間である。
しかしその胎動は、遡って1997年頃から始まっていた。そしてそこには、まったく知られていない物語の数々があった。
90年代後半。「シブヤ・ビットバレー」と呼ばれるムーブメントがあった。東京・渋谷にITベンチャー企業が集まり互いに鼓舞しあう。ネット文化黎明期の、ある種特別な熱気の集合体だった。
「シブヤ・ビットバレー」というネーミングは、言うまでもなくシリコンバレーのもじり。渋谷の「渋(ビター)」と「谷(バレー)」からの造語だ。また「ビット(binary digit=デジタルコンピューターの最小単位)」というキーワードには、名著『ビーイング・デジタル:ビットの時代』(著者はMITメディアラボ創設者のニコラス・ネグロポンテ)の影響も見て取れる。
1998年、東急文化村の裏手、松濤に事務所があったスタートアップインキュベーター「ネットエイジ(現在のユナイテッド)」代表の西川 潔らが、起業したばかりのITベンチャーたちに呼びかけ、相互に刺激しあい、情報交換できるように集まる機会を設けたり、コミュニティーを形成するなどしたりしたのが端緒だった。
ちなみに、当時学生で、後にメルカリ社長となる山田進太郎をはじめ、この「ネットエイジ関連」の若者たちは、アマゾン日本上陸の際にも、日本で立ち上がり始めたオークションビジネスを調査するなど、さまざまな形で一役買うことになる……。
「ビットな奴らのアトムな飲み会」
1999年4月22日は、ビットバレーの歴史上でもとりわけ特別な日となった。「ビットスタイル」と命名されたパーティーが、東急文化村地下のカフェ「ドゥ・マゴ」で開かれ、ネットでの起業を夢見る若者たちが集結したのである。主催したのは、現在では国内外のスタートアップ企業への投資活動で知られる松山太河らだ。松山は、当時ネットエイジの取締役でもあった。
この日、壇上に立ってスピーチした男がいる。彼の表の顔は、NTTの社員。「才場英治(サイバーエイジ)」のペンネームでも知られ、起業を志す若者たちで彼をリスペクトする者は多かった。彼は、マイクも要らないような持ち前の大声で話し始めた。
「今日の『ビットスタイル』は、今まで僕らが何度かやっていた『ビットな奴らのアトムな飲み会』と呼ばれる集まりが始まりです。『いくらビットな世界でも、アトム、つまり原子レベルの直接的、物理的なつながりが重要だ!』っていう精神にたって、アトムで直接知り合い、ムーブメントを生むために続けてきた飲み会です。
残念なことに『大人たち』はまだまだインターネットのパワーを理解していない。でも今日、僕らはこうやってここに集まって、インターネットでできることの大きさを語り合っている。これから起きるすごいことの『胎動』を感じている。──これからは必ずネットの時代が来る! これは、絶対に間違いない」
実はネットエイジの名前も、「これからはネットの時代だ」という思いで名づけられている。そして、ここでの「大人たち」とは、銀行や投資家たちを指していた。つまり、今では想像がつかないことだが、本格的にネットビジネスに投資をするベンチャーキャピタルや銀行は、当時ほとんど存在していなかったのだ。
2000年2月、この「ビットスタイル」が六本木のディスコ「ベルファーレ」でも行われた時は、ソフトバンク社長の孫正義が自家用機をチャーターして、ダボス会議が開かれていたスイスから駆けつけた。孫が壇上に上ったときの、集まった2000人の起業家、起業志望者たちの興奮たるや、推して知るべしだ。