「ヤツを引っ張ったのも結局、ビットバレーが一つのきっかけでした。実は彼にも起業の経験があったし、高校からの仲間だけど、当時のビットバレーのムーブメントにも興味があったみたいで、いろいろと連絡を取り合っていたんです。ビットスタイルに来た彼に、会場の裏手で、実は今アマゾンを日本に持ってこようとしていて、1年だけでいいから手伝ってほしいと頼んだ。
高校時代のバンドでは、僕が曲を作ってギターを弾きながら歌って、ヤツはバックでベース&コーラス担当だった。だけど、そういう環境をプロデューサー的に裏で仕掛けていてたのがあいつでした。なので、絶対的な信頼感があった。
まあ、面接で聞いたのは、『お前銀行にいたよな? 金の管理は出来るよな? で、銀行にいたってことは、営業もできるよな?』でしたが。経理的なことや総務系など、なんでも、しかも文字通り『何もない』ところからすべて引き受けられる人材を探していたので、まさにうってつけでした。とにかく現場の運営を任せられる、信頼できる人物が必要だったんです」
そんな彼には、1999年当時は「zShops」の立ち上げを想定していたため、「セラー・リクルーティング・マネージャー」のタイトルでオファーが出された。そして入社後は、事業開発的な業務が彼の肩にすべて乗った。2000年6月あたりに専門部署ができ、ライセンス・仕入れ契約のみの担当になるまでは、経理、人事、総務的な実務もすべて引き受けていたという。
「ヤツは入社の際、『Shin、これからどちらかがアマゾンを辞めるまでは、お前のこと、西野さん、としか呼ばないからな』と宣言してきた。そしてそれから組織上の上下関係をしっかり線引きして仕事するようになった。僕自身はフラット組織指向で、むしろそういうの苦手だったけど、そんなことは、なかなかできないものですよね。そういうところも含めてあいつには本当に感謝しているし、尊敬しています」
アマゾン ・ドット・コム創業当時のジェフ・ベゾス
彼以外にも西野は、ビットバレー関連を通じて人材を確保していった。物流面での責任者となる瀧井も「誰か英語も出来て、物流も分かっている人いないかなぁ」とビットバレーの会場で色んな人に声を掛けたのがきっかけだった。
社員番号4番となる曽根康司も、「日本で買ったロレックスを米国のイーベイで売るビジネスをしている」という話をビットバレーの会場で聞かされて、口説いて来てもらった。野口 真、郡 道子も、ネットでフリマをやってるって会社と知り合ったのがきっかけだった。こうして、後の強力な戦力となる仲間たちが西野の回りには集まってきた。
「ベンチャーの生態系」を作りたい
前述もしたが、実は西野は、当時シリコンバレーでは確立されていた「ベンチャー企業の生態系」を、このビットバレーで実現できればとも思っていた。
ある起業家が社会のニーズなどを敏感に感じ取りサービスを起こす。または、大学や大企業の研究機関からテクノロジーのタネが育まれスタートアップが生まれる。そうした様々なスタートアップは、アマゾンやグーグルといった大きく育ったテックベンチャーなどに買収されたり、自身で上場する。
そうして資金を得た創業者や経営陣たちが、今度はエンジェル投資家として、または経済的にさらに成長しながらメガベンチャーとしての事業を通じて、スタートアップ企業にポジティブなインパクトを与えていく。VCや銀行もそこから還流された資金で再び次なるスタートアップに出資していく──そんなエコシステム、ベンチャーを取り巻く有機的な協力関係を作れればと思っていたのである。