気候・環境

2025.03.13 18:30

西暦536年、人類史上最も生きるのが困難だった年に何が起こったのか?

Dariush M / Shutterstock

鹿や牛など有蹄類は、食べられる草が育たずに栄養失調になった。獲物を奪われた肉食動物が人間の居住地に入り込むようになり、肉食動物と人間が衝突することが増えた。

食物連鎖の基礎になることが多い昆虫の激減は、授粉率の低下を招き、植物の生殖にも影響した。

そして、そこに示し合わせたように疫病が襲った。

西暦541年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で「ユスティニアヌスの疫病」と称される疾病が猛威をふるった。後にペスト菌だと特定された病原菌が恐ろしい勢いで蔓延し、2500万人が犠牲になったとも言われている。

西暦541年、ビザンツ帝国では「ユスティニアヌスの疫病」と称されるペストが蔓延。2500万人が犠牲になった(Getty Images)
西暦541年、ビザンツ帝国では「ユスティニアヌスの疫病」と称されるペストが蔓延。2500万人が犠牲になった(Getty Images)

一説には、地球の生態系の弱体化(そして齧歯類の増加)が、史上最悪ともいわれる疫病の世界的大流行につながったのではと言われている。

西暦536年のカタストロフィーにより、世界各地の文明で転換が進んだ

西暦536年の地球規模の異常気象が残した破壊の爪痕として、いくつもの文明で、政治と文化の状況が一新された。人々が新しい現実に適応しようと苦闘するなかで、大陸を越えて、王国の衰退、経済の崩壊、社会の激変が起きた。

皇帝ユスティニアヌス1世が治めていた東ローマ帝国は、内部の衝突で疲弊しているところに、西暦536年の気候危機による影響が次々と押し寄せたことで荒廃した。そのわずか5年後、「ユスティニアヌスの疫病」で帝国の弱体化がさらに進み、地中海地域では人口の半数近くが死亡したとされる。

飢饉、疫病、経済不況が重なったことで通商路が途絶え、東ローマ帝国の国境防衛力は大幅に低下した。

ササン朝ペルシアも、気温の低下と天候不順による厳しい不作に見舞われ、食料不足で軍事行動も難航した。7世紀にはインフラが弱体化し、アラブ人やテュルク系民族の侵入といった、外からの脅威に抵抗できなくなった。

西暦536年に始まった一連の出来事が、後々、社会に甚大な影響を与えたことは明らかだ。適応して持ち直した文明があれば、崩壊した文明もあった。新たな体制や文化運動への道が開いた。

死と破滅から生まれた神話

現代科学のような道具がない当時の社会は、物語に頼ることで、西暦536年の終わりのない暗闇と環境激変に説明をつけた。

北欧神話における「フィンブルの冬」、つまり、ラグナロク(終末の日)に先立つ、何年も続く日の射さない冬は、西暦536年の気象状況に驚くほど似ている。スカンジナビアでは、金の財宝が大量に埋められたが、もしかすると、太陽に戻ってもらうための、神々に対する懸命な供え物だったのかもしれない。

グレートブリテン島におけるアーサー王の神話も、この時期にルーツがあるのかもしれない。530年代後半の危機で加速した戦争と移住が、後にアーサー王伝説の一部になったとする歴史家もいる。

西暦536年の出来事は、単なる気候災害ではなく、文明に甚大な影響を与えた。その深刻さは、さまざまな文明において、文化的な記憶に刻みこまれるほどだった。

forbes.com 原文

翻訳=緒方亮/ガリレオ

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