だが、アナウサギ(Oryctolagus cuniculus)の台頭ほど、急速かつ壊滅的な被害をもたらした外来種の侵入事例はないだろう。
24匹のアナウサギが最初に野に放たれたのは、19世紀半ばのことだ。この一見するとたいしたことのなさそうな導入は、その後すぐに破壊の波を巻き起こし、生態系と暮らしのかたちを全面的につくりかえた。ささいな狩猟実験が、大陸全土にわたる危機になったのだ。
すべての始まりは、トーマス・オースティンの狩猟欲
オーストラリアの「ウサギ禍」は、ある1人の男が発端となった。ビクトリア州のバーウォン・パークという地所に住む英国出身の牧場主、トーマス・オースティンだ。オースティンはその地所で暮らしながら、イングランドで慣れ親しんだ狩猟の伝統を懐かしく思っていた。イングランドの田園地方の狩猟では、ウサギが価値のある獲物だった。
オースティンは1859年、祖国の家族に、野生のものと飼育されていたもの、合わせて24匹のアナウサギを送って欲しいと頼んだ。その狙いは単純だった──地域個体群をつくって、狩猟の獲物としようと思ったのだ。
12月25日、そのウサギたちがオーストラリアの低木林地に放たれた。当初はとるにたらないように見えたこの行為は、ほどなくして未曽有の規模の生態系崩壊へと発展することになる。
放たれたウサギたちは指数関数的に増え、ごく短期間でその数は数千匹に達した。最初の24匹が放たれてから7年後には、殺されたウサギの数は、オースティンの地所だけでも1万4000匹を超えた。
この問題には二重の要因があった。オーストラリアの穏やかな冬のおかげでウサギが一年を通じて繁殖できた上に、広大な農地がウサギに無限の食料を提供していたのだ。