これらのライオンには、珍しいことに、オスでありながらたてがみがなかった。これは、乾燥地帯であるツァボの環境条件と結びついた特徴だ。
この惨劇は、ライオンがなぜヒトを獲物に選ぶようになったのかという興味深い疑問を投げかける。通常の獲物が乏しかったための苦肉の策だったのだろうか? それとも、特定の条件が重なって引き起こされたことで、進化的に見れば例外事象なのだろうか?
恐怖に満ちたこの物語は、一般大衆の想像力をかき立てるが、同時に、捕食者の行動を研究するにあたって、ユニークな視点を提供するものでもある。
ケニア─ウガンダ鉄道と人食いライオン
ケニア─ウガンダ鉄道の建設は、そもそも困難に満ちていた。険しい地形や、感染症の流行などがあったからだ。しかし、1898年に姿を表した2頭のライオン(今日では「ゴースト」と「ダークネス」の名で知られる)は、またたく間に最大の脅威となった。ライオンたちは9カ月にわたり、労働者のキャンプに夜襲を仕かけては、犠牲者を引きずって闇に消えた。アフリカ人労働者だけでなく、インド人の鉄道作業員やキャンプの監視員も犠牲になった。
パニックは野火のように広がり、大勢の労働者が現場を放棄した。ケニア─ウガンダ鉄道は、「狂気の鉄道(ルナティック・ライン)」という不吉なあだ名を与えられた。
鉄道建設の総監督を務めていた英国軍人のジョン・パターソン(最終階級は中佐)は、自ら危機の解決に乗り出した。パターソンは罠を仕かけ、キャンプの囲いを厳重にしたが、ライオンは驚くべき狡猾さを示し、人間の試みを何度も出し抜いた。
最終的にパターソンは、餌でおびき寄せて小高い監視台から銃で仕留める作戦に出た。何夜にもわたる待ち伏せが功を奏し、パターソンはついに1頭目のライオンを仕留めた。至近距離で遭遇した直後であり、危うく彼も命を落とすところだった。2頭目はさらに用心深く、3週間にわたって罠を避け続けた末に、ようやく射殺された。