「スロー」はラグジュアリーなのか プロセスと結果の関係とは

MIGO for Benchmark. Photo: Jason Yates

しかしながら、幸か不幸か、社会にある多くのことは区分けが曖昧な領域にあるか、人の趣味趣向または事情により、どちらの区分けに属するかは時々の選択に依拠するのです。
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時間がかかることは値段が高くなるケースが多く、時間をかけていない安いものを選ばざるを得ないこともあります。新幹線や飛行機に乗るのは飽き足らないから、在来線やバスに乗って景色をのんびりと眺める時間を大切にしたいと願望をもつことがあります。移動は早ければ早いほど良いということでもないのです。

また、仕事の性格でいうならば、問題解決は短い時間で策を見いだした方が良いでしょう。その策の改善策も次々に時間をおかずに出していくのに限ります。一方で、解決ではなく新たな意味を問うような領域においては時間をかけないといけません。質がポイントになり、洗練されていることが重要です。なぜなら、心の襞にも沿うようなものでないと、それこそ意味をなさないのですよね。だから時間は必要。それなしに考え方が洗練することはほぼ不可能です。

ここで繰り返しますが、世の中の多くの衝突の要因は、時間をかけるべきところにかけず、時間をかけなくてもよいことに時間をかけ過ぎていることです。前者が質や人間性の喪失を招き、後者が生産効率を犠牲にします。さらに、どれに時間をかけ、どれに時間をかけないかの判断基準が人によってさまざまに異なるのです。
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少なくても、人間関係にかかわること、意味にかかわることは時間をかけるのが妥当と考える人が多い……とは考えたいです。いや、願いたいです。人間関係にかかわることで時間をかけたくないから、ロボットに頼る策に走ろうとする人がいるのも知っていますが、そうした人もすべてがロボットに頼りたいわけではなく、(たまにであっても)人間の友人も傍にいて欲しいのです。

結局のところ、スローでありたいところに正々堂々とスローである正当性を主張できるのが望ましい。時間をかけない、ファストであるのは、資本効率を促すので正当性が目に見えやすい。しかし、そうした論理が通用しない(またはしづらい)次元に対しては、それなりの理論武装が必要な時代に生きている。ただ、スローフード運動の各方面への影響のおかげもあり、その武装は以前よりは軽装ですむ気配がある、とは言えるでしょう。

スローフード運動は美味しいものを長く食べ続けたいとの希求から始まっています。実は生理的なレベルや審美的なレベルにおける「我慢できない部分を我慢できないと言える」ことが寛容にみられるのがスローの基本なのかも、とふと思いました。それが時により、ラグジュアリーと見なされるのです。
SPOT for Le Klint. Photo: Le Klint.

SPOT for Le Klint. Photo: Le Klint.


なお、前澤さんがヒーン氏の方針を説明するなかで「何世代にもわたって使われるようなものをつくるというフォーカスでプロジェクトに臨むと、素材にしろ工程にしろ、ひとつひとつに入念なチェックを踏むことになり、時間も手数も費用もかかり、結果的にラグジュアリーな製品になってしまう」にある「なってしまう」との表現がちょっとひっかかりました。しかし、ラグジュアリーとは狙うものではなく結果である、との正論に沿っているのかもしれません。

文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

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