異国情緒をあまりに受け入れ過ぎると、国境沿いの町にあるようなもの悲しさやテーマパークにある非現実的な可笑しさに直面します。こういう表現があたっているかどうか分かりませんが、「身を持ち崩した」印象をもちます。
異文化融合は洗練されたアウトプットを生み出すことを必ずしも保証しない。つまり、国境沿いの町の風景が何処も素敵というわけではない、ということを言うためにぼくは表現探しに苦労しています。ああだ、こうだ、と色々なアングルから誤解を生むかもしれないさまざまな言葉で説明せざるを得ないテーマを扱っているのです。
さて、これは極めてラグジュアリー的な議論です。更に言うなら、新ラグジュアリー的です。定型につきものの先入観や既成概念に疑問を呈しながらも、それが定型として認知される理由も同時に考えていく。いわば、スペック的、あるいは答え合わせのような考え方から脱するところにしか心の落ち着けるところがない、という話であり、同時にセンスが良いであろう新たな風景を探し出していこうとしています。
こういう思考や議論のプロセスのなかで政治的な要素や経済的な要因が大きく入り込んだり、小さく萎んでいったりするのが「時代」というものなのかな、と思います。