人気の「トロピカル・モダニズム」の背景から考えられること

ソットサスをポストモダニズムの旗手と形容した人たちは、アルプス山脈の北にあるモダニズムだけを参照していた。それではモダニズムについて視野が狭い、と言われても仕方がないです。
 
これが本稿の出発点になります。
 
英米のアングロサクソン系やドイツを中心としたゲルマン系を国際標準において、それらが複数の文化圏の枠を超えて普遍的であるが如くに言われることは無数にあります。ある意味、どこの国の人も例外なく「井の中の蛙」であると自覚するのが起点にこないと話が発展しにくい。誰もが「自分が井の中の蛙と見られる理由は何なのか?」と考えるのが、ことのはじまりに相応しいでしょう。
 
ぼくが「それはアングロサクソン系」とか「あれはゲルマン系」と言うのは、イタリアという地中海側に住んでいるからです。だからメジャーなものとして扱われやすいアルプスの北側のそれらを外側から評しやすい。
 
一方、日本にいる人たちは西洋文化圏を一括りにして「欧米系」と評価し、ヨーロッパと米国を一緒にしてしまいます。だから日本の人が何らかの独自性を出そうとするとき、「西洋ではなく東洋の文化を軸に!」とひとっ飛びに大きなことを言ってみたくなるのですね。

西洋を大雑把に捉えると同じレベルで東洋をベースにしようとするから、「意気込みはわかるけど、雑駁過ぎない?」という印象だけが残ります。もちろん、西洋の人も東洋を雑につかまえているのは変わりないのですが。
 
これを別の事例に展開させましょう。
 
例えば、ヨーロッパの高級ブランド企業が旧植民地にある文化モチーフをファッションに用いたとき、旧植民地側にあるアフリカ、アジア、南米などの人たちは「自分たちのビジネスのために、われわれの文化を曲解して使うのは許せない」と不満や異議申し立ての声をあげます。
 
だいたい、自分たちのよく知っている文化に敏感で、他の文化圏についてはよく知らずに鈍感。人の知識や認知の言いようのないギャップが、前述のような文化盗用の問題をひきおこします。

言うまでもなく、他の文化を愛でる趣向を否定するのも不自然です。異国情緒とは異なった文化が醸し出す雰囲気を指しますが、文化交流は違うものに惹かれることに起因するのが多いので、ここを遮断するのは人の自然な心持に反することになります。
次ページ > 現代の社会認識のもとでの異国情緒とは?

文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

タグ:

連載

ポストラグジュアリー -360度の風景-

ForbesBrandVoice

人気記事