モダニズムの理論が「よりよい住まいのかたち」として国際化できると信じた彼らは、欧州を超えて、さまざまな地域でモダニズム建築を実践・布教していきます。その中で生まれた派生系のひとつが、トロピカル・モダニズムでした。
この展示の中心人物として取り上げられているのは、イギリスの建築家夫妻、ジェーン・ドリューとマックスウェル・フライです。彼らは戦前から自国でのモダニズム運動に励んでいましたが、イギリスの気候や風土が受け付けず、実現に苦労していました。
ところが、戦後にイギリス政府からガーナのコミュニティセンターや教育施設など、現地の国民(当時は植民地国民)の反抗心を「和らげる」ような公的施設の建築を依頼され、実践の絶好のチャンスを得ます。また数年後には、インド・パンジャーブ州の新都市、チャンディガールの都市計画に携わり、当時最も影響力のあったル・コルビュジェを招待し、議会や裁判所などの政府庁舎を共同で設計しました。
彼らは高温多湿な気候や、その地域で手に入る素材や人材などの条件に合わせて、自らの建築スタイルを適応していきます。日陰を作るために張り出したフラットな屋根や、風通し穴で模様づけたスクリーンなどはその過程で生まれました。また、モダニズム建築の代名詞でもあるコンクリートの壁は、老若男女、そしてロバなどのあり合わせの手でつくられたことで、欧州モダニズム建築に見える機械的な精密さとは違った表情を持っていました。
展示が面白くなるのはここからです。欧州の建築家が地元の伝統や建築を取り入れていくことに否定的、あるいは表面的だったことをさまざまな文献を通して紐解いていくのです。
例えば、ドリュー・フライ夫妻が西アフリカ文化から取り入れたのは、アシャンティ族の儀式で使われていたスツールの装飾を、抽象化してコンクリートスクリーンに使用した程度。また、ル・コルビュジェは、モダニズムの理想に合わないからと、チャンディガールの計画においてインドの都市には欠かせない牛や市場の排除を命じた、といったようなエピソードが紹介されていました。