ラグジュアリーにおける「わかりやすさ」と「複雑性」とは

鈴木 奈央
大ざっぱな「日本の文化」を大ざっぱに「欧州の人たち」に紹介するのではなく、あなた自身のモノや考え方を欧州のしかるべき顔のみえる人に紹介するのです。そのとき、その人が「輸入したい!」と思うかどうか。選択権が自分にあると思われるような環境をつくるに注力する。マンズィーニが言及する条件設定にあたります。 

文化とは輪郭が明確にありません。二言三言で説明もできません。それこそ複雑です。また、文化とは常に結果です。したがってビジネスのうえでリアリティを求めれば求めるほどに、モノであれ考え方であれ、固有の姿が浮き上がってこないといけません。モノであれば普通名詞ではなく固有名詞です。かといって、モノに拘り機能的スペックや職人技に入り込み過ぎると、これはこれでまた、一方的な賞賛(承認欲求とも言える)の世界に嵌ってしまいます。よって文化に関わるビジネスには熟練した舵取りが要されるのです。

その舵取りを阻害する要因の一つが、アイデンティティ主義とも称すべき傾向ではないかと考えています。自分らしいアイデンティティ、自分が属する社会や国家を伴ったアイデンティティ、これらがないと根無し草になるという恐怖心に追い立てられるが如く、アイデンティティがまるで「権威」であるかのようにそれに頼る。

とても“静的”にアイデンティティを捉えています。

アイデンティティそのものに重きをおくかおかないかは脇におくとして、アイデンティティは“動的”であると捉えるのが妥当です。人の長い人生のなかでもアイデンティティは変わるものです。家庭環境や携わる仕事によっても変わるでしょう。また、現代においてはいくつかのアイデンティティを並行してもち、タイミングや状況によってどれかのアイデンティティが顕在化する(または意識化する)のが普通です。日本で生まれ育ってもハリウッド文化を「自分の文化」と思う人はいます。
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それにもかかわらず、「日本の文化を海外へ」と語る時は和装の自分に変身しようとします。他国の装いと違うことで存在感をアピールしようとの競争意識が働くのです。アイデンティティを上位のもののように見せながら、実際は争いのツールなのですね。文化は美意識と絡むとすれば、あまり美しくない振る舞いと評するしかないです。むろん、崇高とは程遠い。

およそ旧ラグジュアリーは文化アイデンティティの大盤振る舞いをしてきたのです。今、議論の対象となっている新ラグジュアリーでは文化アイデンティの扱いには慎重になるのが良いと思います。文化アイデンティティの価値を否定するのではなく、生卵を手にした時のように丁寧に……したがって複雑性はより維持されないといけないです。

文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

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