ラグジュアリーについていろいろな場でワークショップをやってきましたが、参加者の方たちが相当に深くまで考えられた軌跡が見られるのが講師側の醍醐味です。「本質にたどり着く」という言い方をする人がよくいますが、違う言葉で言うと、何らか今まで見たことのない風景の存在を意識された、という印象を持ちます。堀田さんも伊藤さんも例外ではなかったことに、正直、安堵しました。
今回ご参加いただいた10人のうち何人かが、講座全7回の最初の頃に「日本文化を海外に広げたい」と抱負を話していました。しかし、後半になってそのような抱負自体を反省されるようになったのが良かったです。ここでは、ぼくがそう思う理由を説明しましょう。
「日本文化を海外に広げたい」というと、日本政府の人が政策として語り実践するレベルがひとつあります。これらは彼らの仕事として積極的に推進すべき戦略的外交テーマです。しかし、一民間企業や個人のビジネスレベルにおいては「日本文化が海外に広がることに結果的に貢献した」というのが実態です。もちろんそれは恥じることはなく、それぞれの具体的な試みのなかで戦略的に「日本文化の伝播」が項目にあがることはありますが、これが筆頭にくるようなアプローチには賛同しません。
もう10年以上前、比較文学者で詩人の管啓次郎さんと話した時、彼が放った「文化には輸入しかなく、輸出はない」という言葉がとても印象的でした。
その本を読みたい、その考え方を知りたいと求められることはありますが(=輸入)、この本を読むといい、この考え方を受け入れてくれと押し付けることは避けたい(=輸出)というわけです。欧州各国の植民地として苦しんだ中南米などの文学にも造詣の深い管さんならではの指摘に、ぼくはハッとしました。
顔がみえる人を想定して
ぼくが本を訳したこともあるソーシャルイノベーション研究と実践で第一人者、エツィオ・マンズィーニがよく話す内容に「コミュニティはデザインできない。しかし、コミュニティが成立しやすい条件はデザインできる」というのがあります。これと同じことが文化そのものの生成にも言えるし、文化の普及についても適用できるのです。「日本文化を海外に広げたい」と希望する気持ちが分からないでもありませんが、その発想自体が文化への敬意や理解と矛盾をきたすのです。さらに、往々にして善意に満ちていると思い込んでいるので厄介です。
望ましいのは、さまざまな文化との出逢いに躊躇しない姿勢で双方向の関係を築くことです。これ以上でもこれ以下でもないのです。その境界線を経験してもらうのが、今回の講座で皆さんにお願いした「自分の素材を欧州で紹介するにあたり協力してくれる国外の人を3人選び、実際にコンタクトすること」です。