カルチャー

2024.02.15 11:30

そもそも「文化」とは何か? ラグジュアリーの議論における重要性

鈴木 奈央
ラグジュアリーの勉強会や講座に携わり始めてからほぼ3年が経ちました。やっと私の中で「ラグジュアリー」を語ることが自然になってきたなあと感じていた矢先、安西さんから連載のお誘いを受けました。正直、中野さんの後任に大変なプレッシャーを感じずにはいられませんでしたが、同時に「これは宇宙のお告げ」だと悟り、二つ返事でお引き受けしました。

さて、安西さんからお題としていただいた、私のラグジュアリーに対する見解についてですが、すでにご紹介いただいたように、私がデザインをする時、また何かを語る時には、「異文化」というキーワードが常にコアにあります。それはラグジュアリーに関しても同様です。異文化理解は、この連載でも何度も取り上げられていますし、安西さんと中野さんの共著『新・ラグジュアリー ―文化が生み出す経済 10の講義』でも議論されている重要なトピックです。

今回は、改めて「3人目の視点」として、新・ラグジュアリーにおける異文化理解の立ち位置を私目線で考えてみたいと思います。

まず、私たちが当たり前に口にする「文化」とはいったい何なのでしょうか。例えば、英語のcultureの語源のひとつは「大地を耕す」という意味のラテン語culturaです。Culturaという言葉は、少なくともキリスト教時代初期から使われていました。古くはローマの哲学者キケロが、彼の著作『トゥスクルム荘対談集』で、哲学による精神の発達を農業に例えて、「Cultura autem animi philosophia est (魂の耕作とは哲学である)」と使っています。

Cultureが近代的な意味で使われるようになったのは、産業革命後の18世紀後半からで、物質的な発展という意味でのcivilization(文明)との比較で概念化されていきました。それまでのかなり長い間は、cultureは「精神を耕す」とい意味の教育哲学の言葉でした。

では日本語の「文化」はどこからやってきたのでしょうか。

日本国語大辞典〔第2版〕(小学館, 2003)によると、「1. 権力や刑罰を用いないで導き教えること。文徳により教化すること」とあります。出典には、御成敗式目の注訳書として影響力のあった「清原宣賢式目抄(1534)」の一文で、『故文化を先にし、刑罰を後にして、人民心を一つにして』が添えてあります。暴力を使わずに人の心を一つにするもの、のような意味で使われていたことが興味深いですが、日本でも文化は教育の言葉としてかつて存在していたことが伺えます。
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文=安西洋之(前半)、前澤知美(後半)

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