「翻訳」は「訳(やく)を翻す」だけでなく「訳(わけ)を翻す」とも読むことができます。つまり語義だけでなく、物事の道理、理由、事情なども翻すふるまいで、何をどのように翻して付加価値を生み出すのか?がこれからの「翻訳」では大事になると考えています。
『夜と霧』著者のヴィクトール・E・フランクルを例にお話しします。
フランクルは「生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ」と語ります。人生の意味をコペルニクス的転回で捉えるべき、と。人生の答えを求めるのではなく、人生の問いに全力で自ら答えていくべきというのがフランクルの考えで、人生についてのこの再解釈を私は優れた「翻訳」であると思っています。
トランスクリエーションの「トランス」は何かを超えるという意味を持ちます。それでは、超えた先に何を創造(クリエーション)すべきなのか? それは「新しい共感」であるというのが私の考えです。例えば先ほどのフランクルは、生きることについて常套句を超えて「新しい共感」をもたらしたと言えます。
ChatGPTなど生成AIが不得手とするのも「共感」です。人間である我々ができるトランスクリエーションでは、理解や正解を超越して、別解としての共感を生み出すところまで創造プロセスを開拓するべきだと考えています」
我々自身が、人生から問われている立場であるのであれば、文章を書く際や、画像を生み出す際に、生成AIに頼ることに甘んじていて良いのか?という疑問が生まれてくる。今まで自分が経験してきたものの中から言葉を紡ぐことこそ、作品を生み出すことが、人生から問われる立場としては、真摯に人生に向き合うことと言えないか。