富山で見た、美醜「二元論」を超えた先にある美しさ

富山県南砺市にある「躅飛山 光徳寺」(撮影=中野香織)

富山県南砺市に「躅飛山 光徳寺(ちょくひざん こうとくじ)」という真宗大谷派の寺院があります。砺波市の散居村と「文化的景観」に関するセミナーに講師として招かれた際、主催者が「この土地を理解していただくために、ぜひ、このお寺をお見せしたい」とお連れくださいました。

何の先入観もなしに一歩、門の中を踏み入れた途端、異次元の世界に入り込んだようでした。ありとあらゆる色と形の世界の壺がアートのようにぽんぽんと庭に置かれています。カッパドキアの空を埋め尽くす気球のごとく、寺の庭園が壺で楽し気に彩られているのです。
(撮影=中野香織)

(撮影=中野香織)


中へ入るとさらに興奮の連続。世界中から集められた家具や道具や陶磁器や木工品や織物や染物、つまり「民藝品」が、各部屋にぎっしりと飾りつくされています。ひとつひとつの品は日用品といいながら決してシンプルではなく、精緻に作りこまれたユニークな器物なのですが、それを作った作家の名など記されていません。各国の人々の生活のなかで使いこまれ、愛されてきた、日常にとけこむ「名もなき」アートです。

アジア、アフリカ、ヨーロッパ、南半球、アメリカ、と世界中から集められた個性の強い民藝品がひしめいているのに、互いの強さがぶつかり合わず、むしろ寺院のなかでしっくりと調和しており、そのことじたいに驚きがあるという現象を、不思議に思いました。
(撮影=中野香織)

(撮影=中野香織)

連れてきてくださった「水と匠」のプロデューサー、林口砂里さんによれば、その理由はこのように説明されます。「職人たちが作家としてのエゴを主張せず、自分を超える、より大きな力に委ねて作っているために、作品同士がぶつかり合うことがないのです」。作家としての主張やエゴを超えたはるかに大きな力、「他力(たりき)」に委ねて作られたもの、それが民藝の美しさの本質で、ゆえに互いにぶつかり合うこともない、と。

そのような「エゴなきアート」の集積が醸し出すおおらかでユニークな空気感に、なんというか、包み込まれるような深い感慨を覚えました。

実はこの寺は、棟方志功が作風を変えるほどの影響を受けた場所でもあります。青森出身の棟方は「日本のゴッホになる」と決意していたほど作家性を前面に出す作品を作っていましたが、戦時疎開のために富山県南砺市に移住し、1954年までこの地に住む間に作風が変わります。この地に根付く浄土真宗に影響を受け、自力のみに頼り仕事をすることの限界に気づき、自分を超える大きな他力に身をゆだねることに開眼します。「阿弥陀如来像」や「蓮如上人の柵」はじめ仏教を題材とした作品も作るようになっていきます。
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文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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