アート

2023.07.01 11:30

「遺骨」を洗う仕事で気付いた、画家・井田幸昌が生きる意味 

田中友梨
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今のままでは生きている意味がない

井田が弟子入りした石屋は、墓石の加工や石仏の製造、施工、庭園の砂利の管理などを行なっていた。

墓石に関する業務は“人の死”に関わる仕事でもある。つくって納品して終わりではなく、施主となる故人の葬儀に参列したり、設置した墓のメンテナンスをしたりするのも仕事の一環だ。

ある時、井田は墓に納められている「遺骨」を洗う作業を任された。遺骨は、保管が長期にわたると、汚れがついたりカビが生えたりすることがあるからだ。この作業は、故人に失礼がないよう手袋はせずに素手で洗うのという決まりがある。

「流水で遺骨を洗いながら、ふと、俺は今、誰かだった“人”を洗っているんだと思った。いつか俺もこうなるのかと考えたら、今のままでは生きている意味がないぞ!って、青天の霹靂みたいに思いました」

どんな人生を送ったとしても、最終的に小さな骨片になることに変わりはない。ならば、できるときにできることを、思いのままに生きなければならないのではないか。そう考えた井田は、その日の帰り道に、買うことができるだけの画材を買った。

「家に帰って、描くものもないので鏡を置いて、自分の顔を描きました。そしたら涙がポロポロ出てきて、やっぱり俺は絵が描きたかったんだってわかったんです」

再び「画家」の道へ

「もう一回東京藝大を受験したい」。

なかなか言い出せなかったが、石工の親方は井田の相談を「そうか、頑張れよ」と聞き入れた。

「最後の出勤日には送別会を開いてもらったんですけど、みんな『落ちてこいよ』って冗談を言ってくれて。それがうれしかったんです。今までは自分には戻る場所がないと思っていたのに、ここにできたんだという安心感みたいなものを感じました」

「誰かに支えられて生きている」という実感は、絵筆を軽くした。4度目の受験には成功し、2012年に東京藝術大学の油画専攻に入学。再び画家への道を歩み始めることとなった。

ただ、夢と希望に満ちたはずの大学生活も、思うようにはいかなかった。

「描けなくなりました。描いても、描いても、良いものができない。それでまた“どうしたものか”と考えるようになりました」

行き詰まりを感じていた大学2年時、とある教師に「良かったらインドに一緒に行ってみないか」と声をかけられる。井田にとっては渡りに船の提案。断るという選択肢はなかった。

このインドへの旅が「画家・井田幸昌」を覚醒させることになる。

>>第3回 画家・井田幸昌が、生涯のテーマ「一期一会」を決めた瞬間

◤30U30 AIUMNI INTERVIEW◢
「画家・井田幸昌」
#1 井田幸昌は、なぜ画家になったのか。ひたすら「手」を描いた中学時代
#2 「遺骨」を洗う仕事で気付いた、画家・井田幸昌が生きる意味
#3 画家・井田幸昌が、生涯のテーマ「一期一会」を決めた瞬間
#4 「自分は不良品だ」 画家・井田幸昌がやっと見つけた居場所
#5 井田幸昌が鳥取に凱旋。「変わり続けるもの」と「変わらないもの」とは

文=尾田健太郎 取材・編集=田中友梨 撮影=山田大輔

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