「でっかい眼鏡をかけたアメリカ人が現れてね」。DHL創業者の一人、ラリー・ヒルブロムだった。コーヒーを飲みながら話すうち、「あなたはフランス語やアラビア語、英語、日本語が話せる。ぜひ一緒に仕事をしましょう」と口説かれた。
DHLとの関係を深めたのは、日本の商社で働き、サウジアラビア政府とのやりとりで鍛えた、その交渉力だ。
当時フランスの郵便は国の事業で、特に重さ1kg以下の文書類は民間では扱えなかった。そこを、DHLのコンサルタントとして弁護士とともに約半年かけて郵政省と交渉。1つの文書郵便につき、9フランの「ペナルティ」を郵便局に払うことで合意を取り付ける。「9フラン払っても全然大丈夫。当時のパリと東京間の国際郵便が500gで1万5000円くらいだったからね」。こうしてDHLの信頼を獲得していったのだ。
見つけた「ファーストクラスの物流」のニーズ
そして、そのパリで、「誰も扱わないもの」がビジネスになると確信する出来事が舞い込む。ある朝、ジャーナリストがフィルムを手に、「今日フライトのエールフランスに乗って東京に届けてほしい」と飛び込んできた。合意した配送手数料は20万円。往復航空チケット代は別。たった一つの撮影フィルムを日本に手持ちで届けるだけで45万円。「これはビジネスになると思ったね。ほかがやっているようなエコノミーはやらない、ファーストクラスの物流に特化しようと思った」
96年にハブネットを設立。今もポリシーとして掲げる「預かった荷物を荷受人までドアツードアで専門スタッフが届ける、24時間365日体制のファーストクラスサービス」の始まりだ。
インターネットが存在しない世界では、重要かつ急を要する情報は「モノ」で運ばれていた。銀行や商社、メーカーから、書類やCD-ROM、製造部品を預かり、日本から海外支社に、またその逆や海外の工場を回って運ぶこともあった。そして、DHLやフェデックスもまた、「ファーストクラスの物流」の顧客になったのだ。
「当時は配送ミスがいっぱいあったのよ」。ベトナムのホーチミンに送る日本の商社の荷物を、誤ってアメリカのアンカレッジに送ってしまった。いったん東京に戻すから急ぎホーチミンに送ってほしい──。フェデックスからその依頼が来たときは、ビザを必要としない渋谷のベトナムレストランの店主にお願いして届けてもらった。「フェデックスへの請求額は72万円だったね」。
その後、大手物流会社が手を付けない貴重品など、特別な梱包や取り扱い、微妙な温度管理を必要とするものへと領域を拡大。新型コロナウイルス感染者の国内検体をアメリカの製薬会社に運んだり、日本のオークションで落札した美術品を海外の購入者に届けたり、バイオ医薬品や美術工芸品の特殊輸送で独自の地位を固めていった。