事業継承

2023.05.29

「必要なことは日本の商社で学んだ」 画家が作った世界に通用する家族企業

モデルとして活躍する山本ソニア(左)、ハブネットのメッセルマニ・アヌワ会長(中)、ハブネットの山本啓寿社長(右)の一家。

修士課程修了を4カ月後に控えたある夜、アルバイト先の建築事務所のボスに呼ばれる。「日本の商社がアラビア語のわかるアーバンプランナーを探していてね」。住友商事がサウジアラビアの都市開発事業を国際入札で落札し、すぐにサウジに行けないか、という話だった。

77年、当時27歳。契約は2年間。修士課程を終えるまで待てないと言われ、どんな雇用条件かもわからぬままに飛び立ち、「日本」で社会人のスタートを切る。サウジ政府関係者との交渉や翻訳などに携わり、現地事務所と日本の本社を行ったり来たり。そこから、日本の商習慣を身につけていった。

「日本の商社はよい学校でした」とメッセルマニは言う。報連相のビジネス作法を学んだこと。入札からプロジェクトの完遂まで事業プロセスに立ち会えたこと。長く無駄に思えた日本人の会議も、結論はなかなか出ないが、改善策がその都度導き出されていく。会議は日本語の勉強の場でもあった。耳にした言葉をローマ字で書き取り、自作の辞書もつくった。「日本の商社で働かなかったら、絶対に会社をつくることは考えなかったね」。

日本の文化にもなじんでいった。「日本語がうまく発音できるようになったのはカラオケのおかげ。村田英雄の人生劇場、よく歌ったよ」

住友商事から契約延長を求められた。あと2年、その後どうするかを考えるなかで、サウジアラビア人が声をかけてくるようになった。「メイド・イン・ジャパンが欲しい」。ラジオ、テレビ、日用雑貨まで、とにかく欲しいと。81年に日本で貿易会社を設立。現在のエム・アンド・ピーにつながる会社だ。考えたのは、「大手の商社が扱わないもの」。渋谷の小さなオフィスに日本人2人を雇い、動き始めた。

アップルコンピュータが初代Macintoshを発売した84年。その3年前に、1台100万円近くした日本製のパソコンをいち早くサウジで売った。さらに目をつけたのは大型屋外広告だ。レーダーを使って表示を切り替える当時最新の技術を開発した都内メーカーの製品を輸出、欧州や中東の空港やスタジアムに売り込んだ。

メッセルマニのビジネススタンスは「大手が扱っていないもの」と、「来るもの拒まず」にある。「私の会社はね、全部ドアオープン。『やろう』と言われたら、すぐ『やりましょう』。待てない性格だからね」。そのマインドが、人の出会いと次なるビジネスを招いた。

「日本の新聞を駐在員が読みたがっている、手伝ってくれないか」。サウジアラビアの日本食レストランで日本人からもちかけられ、海外で暮らす邦人に日本の新聞を届けていたOCSの代理店を始める。そして82年、思わぬ出会いが訪れる。
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文=斉藤泰生 写真=アーウィン・ウォン

この記事は 「Forbes JAPAN 2023年7月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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