しかも、1980年代の改革開放以降、東北地方の経済は地盤沈下を始める。もともと日本が建国した満洲国時代の近代工業インフラが整備され、それまで社会主義の優等生とみなされていた東北地方で、今日とは真逆の国有企業の改革が始まったからだ。
中国の著名な映像作家、王兵の「鉄西区」(2003年)というドキュメンタリー作品は、満鉄によって1930年代に開発された遼寧省瀋陽(当時は奉天)の重工業地帯である鉄西区が衰退し、地区内の90%近い工場が操業を停止、町に失業者があふれた1990年代後半の中国の社会主義の最末期の裏寂しい光景を記録している。
この頃から多くの東北人は故郷を離れることになったのである。実は、これが日本の「ガチ中華」のオーナーやスタッフに中国東北地方出身者が多い理由でもある。
来日当初の梁さんは、一家で足立区の公団住宅に住み、昼間は夫婦で車両部品工場や清掃の仕事をし、夜勤でパン工場に通うなど、働きづめだったそうだ。当時まだ日本語はうまく話せなかったこともあり、家族を養っていけるのか不安だったという。このままではいけないと思い、こういうときに中国の人は飲食の仕事を始めることが多いという。それならなんとか食べていけるはず……と考えて。
1997年、梁さんは足立区でラーメン屋「味坊」を開業している。店名を名付けてくれたのは、前述のアーティストの王舒野さんだった。梁さんはその店名が大いに気に入ったという。
夫人と交替で24時間近い営業を続けた。当時から中国東北料理を少しずつ出していたが、あまり注文されることはなかった。むしろ日本人の口に合わせた豚バラ先軟骨でダシをとった醤油ラーメンが人気で、売り上げも伸びたという。
こうした努力が実って、2000年1月9日、都心のJR神田駅ガード下に「神田味坊」をオープンさせた。「いまでも忘れないのは、初日が大雪だったこと」と梁さんは感慨深げに話す。
羊肉料理と自然派ワインの出会い
梁さんの話を聞いていくうちに、神田味坊から始まって今年で23年目になる味坊集団の歩みには、大きく3つのフェイズがあったことがわかってくる。第1期は2010年くらいまでの頃で、中国駐在帰りの人や中国好きの常連に愛された時期である。バブル経済崩壊後の日本で、かつての高度成長期の日本人のように懸命に働く中国の人たちに温かいまなざしを向けた人たちに支えられたと言っていいだろう。
この時期、ひとりのユニークな日本人も店を訪れている。四川フェスや羊フェスタといった「ガチ中華」関係の食イベントを数々企画し、今年1月上野公園で開催した「ウエノデ.パンダ春節祭2023」では15万人を超える集客を達成させた菊池一弘さんだ。
彼は北京留学の経験から日本で羊食を促進させたいという志を掲げ、羊齧協会(ひつじかじりきょうかい)なる団体を立ち上げて、2012年頃から正式な活動を始めている。いわば「ガチ中華」の広報活動の先駆けともいえる人物で、羊料理をメインとした食事会を主催するなど、神田味坊を盛り上げてきた。