この1、2年で、欧州ハイエンド企業は中国市場に頼り切るリスクを感じつつあります。政府の富裕層への締め付け、サプライチェーン及び市場の地政学的危うさを「リスクとして勘案せざるを得ない」。一方で、市場規模と需要の強さから「期待もせざるを得ない」。
だから中国市場頼りからブランドの考え方を変更する可能性もさることながら、中国市場の台頭によりブランドを再考する契機をもったこと自体が、新たに購買層に入ってきた若年層への対応を柔軟にさせるとの副次効果を生んでいる。こう説明した方が妥当だと思えます。一度、ほぐされるといろいろな対応ができる、というわけです。
そしてインターネットによる情報の透明性、気候変動への対処としてのサスティナビリティへの傾斜、企業の社会的責任、これらがブランド方針そのものの可変性をさらに増すよう促しています。
ブランドのあり方が変わりつつあり、一方的ではなく双方向になる兆候はあらゆるところに散見される。ファッションであれ、インテリアデザインであれ、個人の手によってセカンドハンドのモノが新品と一緒に組み入れられる。これが現実としてあります。
ただ、こうした変化に明確な因果関係は説明できず、社会的な進化思考のおかげであるとも明言できないのも確かです。つまり、変化の背景となる要因はいろいろと羅列はできる。その一方、ブランドの方針を考える企業の考え方が本当に神髄から変わってきているかどうか、それは確信がもてない。
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しかし、ラグジュアリースタートアップの人たちに限っていうと、心底、新しいあり方を信じているように見えます。これは何を意味するのでしょうか?
ここでやっと、本條さんが説明するようなBXとは、もう完全に人々が中心になり、人々が主導している証なのだと思うに至るのです。「人々」と表現するのは、「ユーザー」や「消費者」という言葉が、企業を軸に使われることが多いからです。いくらユーザー中心とか顧客主導と言い換えても、ビジネスに従属した存在との見方からは逃れられない。だから、この文脈では「人々」でないといけないのです。
人々の代表として、例えば、セカンドハンドの使用者になってみると世界がまるっきり違って見えてきます。自分のもつ世界観に基づき、従来の枠組みを超えて、キュレーター的にさまざまなモノを揃えてみると、ブランド側も何らかのエッセンスを吸収したいと思うほどの関心を示したりします。ローカリゼーションへの躊躇が嘘のようです。
中野さんが関与されている「マリー・クワント展」に協力した人たちは、まさしく「人々」の貢献によって成立していることが輝かしいのだろうなあと想像するのです。統一性のないその凸凹感を、ぼくも体感してみたいものです。