中道:ダイバーシティが自然にある環境は間違いなく大きな価値ですね。レイさんはその後、スイスからアメリカに渡るんですよね。
レイ:そうです。卒業後に母国に戻る友達も多くいましたが、僕らは最初から大学まで留学するプランを思い描いていました。
進学先としてヨーロッパ、アメリカ、日本というオプションがありました。ただ、アメリカのシステムに基づいた学校に通っていたのでその方がスムーズで、6校か7校ほどの大学に書類申請をし、ミシガン大学の美術学部に進むことになります。18歳の時でした。
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中道:美術を専攻したのは、もともとアートやクリエイティブの仕事に就くというイメージがあったからですか。
レイ:そうですね。アートには中学生頃から興味がありました。スイスの学校には、アートや美術、写真部もあり、漠然とアート関係の仕事に就きたいというイメージを描いていました。日本やアメリカの芸術大学や美術大学への進学も考えていました。
最終的には、他の分野にも触れるチャンスがあるはずだと、総合大学の美術学部への進学。入学してから1年ほどはアートを学んでいましたが、当時は1990年代半ばでちょうどインターネットの勃興期で、僕も実際にインターネットに触れ、「これは面白い」と感じたものです。
当時は回線速度が遅く、使える色も限られていた時代。コンピューターでの表現は制約があり、その難しさには感じていました。ただ、コンピューターというキャンバスと、ソフトウェアという筆があれば、いつか自分の表現の場も広がるのではないかという希望のもと、コンピュータサイエンスにも関心を持つようになりました。
それで、卒業までに時間はかかったものの、2科目を専攻しました。昼間はスタジオで彫刻や絵などの作品作りに没頭し、夜になるとコンピュータラボで今度はキーボードを叩いてプログラミングをしていました。
卒業がちょうどドットコムバブルがはじける直前の1990年代後半で、当時はコンピュータサイエンスとアートを専攻していたような学生はほとんどおらず、珍しかったと思います。
中道:ドンピシャのタイミングですね。すべてが繋がっているように思えます。
レイ:正直、偶然だと思いますが、実は、サイエンスとアート、テクノロジーとデザインの融合は、中学生の頃からおぼろげに考えていました。それは両親の影響で、父親は飛騨高山で起業するまで物理学を学んでいた理系で、母親は音楽に関わっていました。僕も幼少期から母にピアノを教えられていて、両親から右脳と左脳のバランスをインプットされたのかなと。