父親はドイツへ。オードリー・タンの不登校が招いた「家庭戦争」の終息

提供:唐光華/オードリー・タン


機嫌が悪い時、箸の持ち方、歯磨き、歩く時の姿勢…その頃のオードリーと父親は、生活の些細なことでしょっちゅう衝突していた。かと思うと、オードリーが父親の存在を完全に無視した時期もあった。母親は彼らにどう関わるか散々迷った結果、オードリーが気持ちを整理し終わるまで、二人のことには関わらないと決めた。オードリーが必要としているのは、ただただ無条件の愛で受け入れてもらうことだと思ったからだ。一度、耐えきれずにオードリーをまた学校に行かせようとした時、まっすぐ自分を見て「世界中の人が分かってくれなくてもいい。どうしてお母さんまで分かってくれないの?」と言われた瞬間には、心が凍りついたという。

オードリーが幼い頃から同居して育児に加わってくれていた義父母らも、この状況を心から心配していた。「今朝はなぜ学校に行かなかったのか」、「なぜいつも遅刻するのか」、「なぜ自分の部屋に閉じこもっているのか」、「なぜ口をきいてくれないのか」、「どうして顔色があんなに真っ青なのか」、「どうしてこんなに口ごたえするような子どもにしてしまったのか」などと尋ねた。

オードリー自身は当時を振り返り、こう話してくれた。

「その頃の私の態度を『反抗期だった』と表現したくなるかもしれませんが、当時はまだ9歳で、そういった時期ではありません。また、私は父を不快に感じ、彼に対して反抗的な態度を取っていましたが、父以外の同居している家族を不快だと感じることはありませんでした。そして、この感情はその時期が過ぎ去れば治まるという類のものではなかったので、『反抗期』と呼べるものではありません。

ではなぜ反抗的な態度を取っていたのか? その理由ははっきりしています。1人の人間が『痛い』と思うのは現象であって、それを体験した人のみが語る資格のあるものであり、他の人が『それは痛くない』と言うことはできないのだということです。ですから、当時の父が私に『学校に行くことはそんなに辛くない』として、学校に行き続けるよう言ったことは矛盾していました。私は絶対にそのことを彼に知らせる必要があったのです」

筆者が『成長戦争』を日本に届けたいと思ったのは、今この瞬間にも、この時のオードリーやその母親のようにもがき苦しんでいる人がいるのではないかと思ったからだ。ギフテッドであるとか、人の親であるとかは関係なく、この世に生を受けたすべての人が、一生のうちどこかで体験してもおかしくない状況だと思うからだ。
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文=近藤弥生子

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